「東京都電」の運転士だったお父さん・美悦さんと、女子車掌のお母さん・はなさんとの間に誕生した、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)さんは、疎開先の自然の中でのびのびと育つと、ひょんなことから、童謡歌手として活動するようになります。

「倍賞千恵子の妹は倍賞美津子!弟は日産自動車野球部の元監督!」からの続き

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両親

倍賞さんのお父さん・美悦さんは、秋田県鹿角郡(現在の鹿角市)に誕生するのですが、中学生の時に上京されると、15歳の時、「東京都電」(1943年6月までは「東京市電」)に少年車掌の試験を受けて合格。

その後、都電の運転士を務められると、女子車掌(市電の「第一期女車掌」)として勤務していた、青木はなさん(倍賞さんのお母さん)と知り合われ、結婚されます。

(はなさんは、茨城県真壁郡大和村(現在の桜川市)の出身で、小学校卒業後に上京し、車掌となられたそうです)

ちなみに、美悦さんは、はなさんと知り合ったばかりの頃、デートを申し込もうと、手紙を書き、はなさんの職場のげた箱に手紙を入れたそうですが、

間違えて別の人のげた箱に入れてしまい、待ち合わせの場所に現れたのは、はなさんではなく、その、別の人だった、という話があるほど、そそっかしいところがあったそうです(笑)

疎開先で自然の暮らし

そんな両親のもと、倍賞さんは、5人兄弟(二男三女)の次女として誕生すると、1945年3月、3歳の時、お母さんの実家がある茨城県桜川市に疎開されるのですが、

そこは、筑波山を望む関東平野のちょうど真ん中にある自然豊かな田舎だったそうで、幼い倍賞さんは、小川に飛び込んで泳いだり、田んぼに入っておたまじゃくしやカエルを捕まえるなど、のびのびと育ったそうです。

また、かやぶき屋根の長屋だった自宅は、狭いうえ、隙間だらけだったため、冬は冷たい風がヒューヒューと入り、雪が吹き込んでくることもあったそうですが、家にはお風呂がなかったことから、外にドラム缶を置いて焚き火でお湯を沸かし、月や満点の星空を見ながらの入浴をされていたのだそうです。

幼少期から歌が上手だった

また、倍賞さんは、近所のおじいちゃんやおばあちゃんから、

チコちゃん(倍賞さんの愛称)もおいで

と、寄り合いの席に誘われては、教わった「赤城の子守唄」(東海林太郎さんの戦前のヒット曲)を歌い、

小学校に学校放送ができた際には、童謡「木の葉のお舟」を歌ったそうですが、とても歌が上手だったそうで、

(倍賞さんは、「木の葉のお舟」を歌う時、初めてマイクの前で歌ったそうです)

その後、倍賞さんが小学5年生の時、一家が疎開先の茨城から東京に戻り、滝野川で暮らし始めるのですが、倍賞さんの楽しみはというと、近所ののど自慢大会に出ることだったそうです。

というのも、優勝すると大きな缶に入ったドロップがもらえたからで、その賞品目当てに参加されていたのだそうです。

「みすず児童合唱団」で童謡歌手として活動

そんなある日のこと、倍賞さんと同じく、歌が好きだった3歳年上のお姉さんが、

一人じゃ心細いから

と、倍賞さんの分も一緒に、「NHKのど自慢大会」に応募すると、お姉さんは残念ながら落ちてしまったのですが、倍賞さんは、見事、予選をクリアし本選も合格。

そこで、レコード会社所属の児童合唱団の先生にスカウトされて、「みすず児童合唱団」に入団されます。

(お姉さんは、美空ひばりさんの「りんご追分」をエントリーされたそうですが、当時の規定で、子どもは童謡しか歌えなかったため、落選してしまったとのこと。もともと童謡を歌っていた倍賞さんは、曲は不明ですが、童謡でエントリーされたようです。)

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妹・倍賞美津子と歌の個人レッスンを受ける

こうして、「みすず児童合唱団」に入団された倍賞さんは、童謡歌手として活動を始めると、NHKのテレビ番組など、いろいろなところに歌いに行くなど、忙しい毎日を過ごすようになり、その後、個人レッスンも受けることになったそうですが、

妹の倍賞美津子さんも、「私もやりたい」と言い出したため、姉妹で個人レッスンを受けることになったそうです。

(そのため、学校は休みがちになり、放送作家の永六輔さんが、よく勉強を教えてくれたそうです)

ただ、児童合唱団での活動は、衣装代のほか旅費なども自分持ちだったため、「東京都電」の運転士だったお父さんのお給料だけでは足りず、お母さんが和裁の内職と生命保険のセールスをして学費を工面してくれたのだそうです。

児童合唱団時代の倍賞さん。

「倍賞千恵子が若い頃は松竹歌劇団(SKD)に所属していた!」に続く

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