若い頃は、今村昌平監督作品「復讐するは我にあり」(1979)など、数多くの映画やテレビドラマでヒロインを演じて、美人女優として人気を博し、近年では、テレビドラマ「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」での母親役が好評だった、倍賞美津子(ばいしょう みつこ)さん。今回は、そんな倍賞さんのお姉さんとお兄さんについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

倍賞さんは1946年11月22日生まれ、
茨城県真壁郡大和村(現・桜川市羽田)のご出身(東京都北区育ち)、

身長163センチ、

血液型はB型、

学歴は、
北区滝野川第六小学校
⇒東京都北区立紅葉中学校
⇒松竹音楽舞踊学校卒業

趣味は、読書、音楽観賞、陶器収集、ゴルフ、バイク、水泳、

特技は、書道、

ちなみに、「倍賞美津子」は本名ですが、「倍賞」という珍しい姓は、秋田県鹿角郡(現在の鹿角市)十和田大湯がルーツとなっているそうで、佐竹藩に仕えた守衛が書記となり、何らかの賞を受けたことが由来となっているそうです。


(後列左から)次姉・千恵子さん、兄・明さん、長姉・節子さん、(前列左から)美津子さん、弟・鉄夫さん。

姉は女優の倍賞千恵子

倍賞さんは、5人兄弟(二男三女) の三女なのですが、姉には、女優の倍賞千恵子さんがいらっしゃいます。

千恵子さんは、幼い頃から歌がうまく、小学生の時に、「NHKのど自慢大会」の本選で見事合格されると、スカウトされて、「みすず児童合唱団」に入団。


倍賞千恵子さん。

その後、1957年には、「松竹音楽舞踊学校」に入学されると、1960年には、首席で「松竹音楽舞踊学校」を卒業し、「松竹歌劇団(SKD)」に13期生として入団されます。

「松竹歌劇団(SKD)」では、スター女優として活躍し、1961年には、松竹映画にスカウトされて、「松竹歌劇団(SKD)」を退団されると、同年、「斑女」で映画デビュー。

1963年には、山田洋次監督作品「下町の太陽」に出演し、その飾らない魅力でブレイクされました。

(「下町の太陽」では、歌手デビューも果たされており、「第4回日本レコード大賞」新人賞を受賞されるほか、「NHK紅白歌合戦」にも出場されています)

その後も、千恵子さんは、山田監督の常連女優して活躍されると、1969年には、映画「男はつらいよ」で、主人公・車寅次郎(渥美清さん)の妹・さくら役を演じて、人気女優としての地位を不動のものとし、「男はつらいよ」は、1995年まで続く人気シリーズとなっています。

また、2004年には、スタジオジブリの宮崎駿監督アニメ映画「ハウルの動く城」で、ヒロイン・ソフィーの声を担当し、主題歌「世界の約束」も歌唱されています。

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兄は日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明

そして、兄は、「日産自動車」硬式野球部元監督で、日本大学第三高等学校(日大三高)甲子園準優勝時のメンバーとして活躍した、倍賞明さんです。


倍賞明さん。

明さんは、野球の強豪校だった東京都北区立紅葉中学校(現・北区立滝野川紅葉中学校)の野球部で強打者として活躍していたところ、東京都の試合を見に訪れていた「日大三高」からスカウトされたそうで、

練習を見に来ないかと言われ、見に行ったらお昼ごはんにお寿司が出たんです。その時初めてお寿司を食べました。それまで、遠足の時に食べるおいなりさんか海苔巻きしか食べたことがなかったので、こんないいものが毎日食べられるのかと思って入学しましたが、その時だけでしたね

と、「日大三高」の練習場を見学させてもらい、その際、お寿司を食べさせてもらったことが決めてとなり、「日大三高」に進学されます。

「日大三高」では、1962年、センバツ高校野球で3番打者として活躍し、準優勝すると、「日本大学」に進学後の1966年、4年生の時には、日本選手権で優勝。

「日本大学」卒業後は、社会人として「鐘紡」(現在のカネボウ)に進まれるのですが、会社の業績が悪化し、解散。

その後は、大学の先輩がいた「日産自動車」へ移籍し、1975年、30歳の時、監督に就任されています。

その後、東京・六本木で、「音楽と野球をこよなく愛するお店」をキャッチフレーズにした「六本木 Sound in Baisho」を経営されていたそうですが、2019年1月、74歳で、「前立腺ガン多臓器転移」のため他界されています。

「倍賞美津子の生い立ちは?幼少期は女ガキ大将だった!」に続く

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