初舞台「東京踊り」で、初代バトンガール(鼓笛隊の指揮者)として、浅草の国際劇場の大階段を歩いて下りている姿が、雑誌に掲載され、その写真を見た「松竹」のスタッフにスカウトされて、映画デビューを果たされた、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)さんですが、実は、映画女優の仕事は嫌で嫌で仕方なかったといいいます。

「倍賞千恵子が若い頃は松竹歌劇団(SKD)に所属していた!」からの続き

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映画女優は嫌々だった

1961年に、映画「斑女(はんにょ)」の家出娘役で女優デビューを果たすと、その後も、次々と映画に出演された倍賞さんですが、

実は、

映画に出るのは嫌でした。だって踊りが好きでSKDに入ったのですから。

見るのは嫌いじゃなかったけど、カメラの前でお芝居するっていうことが頭の中に全然なかった。卒業して、さぁ!これからあの大きな舞台で歌ったり踊ったりできるんだっていうことがもう楽しくてしょうがない時だったから、どうしてそっちへ行かなきゃいけないの?と思ったけど(先生が言うことは)絶対でしたから。

私はSDKで歌って踊っている時、松竹から1本だけ映画に出てくれと言われて、気がついたら映画の世界に入っていたという感じです。最初の年が9本、次の年には13本撮りました。

と、映画出演はしぶしぶだったそうです。

ただ、銭湯へ行くと、銭湯の番台のおかみさんから、

チコちゃん、見たよ

と、声をかけられたほか、貸本屋さん、八百屋さん、おすし屋さん、天ぷら屋さん、パン屋さんなど、たくさんの人たちが、「がんばれ」と応援してくれたことはうれしかったそうです。

「松竹歌劇団(SKD)」を退団

それでも、

こんな狭い中でコチョコチョお芝居をしなければいけないと思うと正直苦痛でした。SKDの舞台が本当に遠ざかっていくようで、将来が不安になりました。

しかも撮影所では監督さんに叱られてばかり。「学芸会をやってるんじゃないんだぞ」と怒鳴られたこともあります。たしかに演技は未熟でした。

撮影が早めに終わった日は門を飛び出して、大好きな江の島に行き、海に向かって大声で叫んでいました。「バカヤロー!撮影所なんか大嫌いだ!」とストレスを発散させていたのです。

振り返ると、当時の私は女優としての自覚のないままに次から次へと台本を渡され、ただ演じていただけでした。撮影所があった大船の駅を寝過ごしてしまったことも何度もありました。

と、映画に出演することが苦痛でたまらなかったそうですが、そんな倍賞さんの気持ちとは裏腹に、その後、映画の仕事が増えていき、ついには「松竹歌劇団(SKD)」を辞めることになったのでした。

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「下町の太陽」で主演&歌手デビュー

こうして、葛藤を抱えながら、映画女優として活動されていた倍賞さんですが、

1962年には、「下町の太陽」で歌手デビューもすると、たちまち大ヒットを記録し、「第4回日本レコード大賞」で新人賞を受賞するほか、「NHK紅白歌合戦」にも出場。

さらに、翌年の1963年には、同曲を原案に、山田洋次監督が映画化した、同名タイトルの映画で、化粧品工場で働きながら愛や人生を真摯に考える主人公・町子役を演じると、庶民的で健気な持ち味で人気を博したのでした。


「下町の太陽」より。倍賞さんと勝呂誉さん。

ちなみに、倍賞さんは、

浅草の花やしきでロケしたときも大変でした。恋人とのデートシーンで夜空に流れ星を見つけ、「ルルルって音がしたもん」と言うのですが、OKがなかなか出ません。

監督は難しい顔をして黙り込んでしまい、撮影はストップ。私は恋人役の勝呂誉さんとビルの谷間で何度も稽古をしたのですが、だめなんです。二人で泣いていました。

と、この作品で、初めて演技をする苦しさを知ったそうですが、

あとで尋ねたら、私の演技の問題ではなくて、(山田監督が)脚本がこれでいいのか悩んでいたそうです。いずれにしても「下町の太陽」に出演したことは大きなステップになりました。監督の注文に応えられるように「柔らかい体と心」を育てることが必要だと思ったのです。

と、女優として大きく飛躍されたのでした。

(当時の「松竹」では、岩下志麻さんが「山の手のお嬢様」と言われたのに対し、倍賞さんは、「サンダル履きが似合う庶民派女優」として売り出されていたそうで、そんな倍賞さんは、「下町の太陽」というイメージとぴったり合っていたことが、抜擢の理由だったそうです)

「倍賞千恵子の若い頃は「男はつらいよ」のさくら役でブレイク!」に続く

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