1988年、「肺ガン」で余命半年と宣告されたご主人を、本人にはその事実を伏せたまま看病を続け、看取られたという、橋田壽賀子(はしだ すがこ)さんですが、ご自身の最期については、「安楽死で逝きたい」と発言し、大きな反響を呼びました。今回は、橋田さんが安楽死を考えるようになった経緯などについてご紹介します。

「橋田壽賀子の自宅は熱海でコロナ禍でも自粛生活を満喫!」からの続き

Sponsored Link

「安楽死したい」発言が大きな反響を呼ぶ

橋田さんは、2016年、「文藝春秋」(12月号)で、

私は安楽死で逝きたい

もし認知症になったら、スイスの安楽死団体ディグニタスに行って安楽死したい

との手記を発表し、

翌年の2017年には、死に方ぐらい自分で決めたい、との思いを綴った著書「安楽死で死なせて下さい」を出版し、大きな反響を呼びました。

(「安楽死」とは、余命とは関係なく、激しい苦痛に悩まされている人に致死薬を投与して死に至らしめる行為のことを言うそうで、一定の条件を満たさないと、医師は殺人罪に問われる可能性があるそうです)


安楽死で死なせて下さい

「安楽死」を考えるようになったきっかけは?

ところで、橋田さんは、なぜ、「安楽死」を考えるようになったのでしょうか。

橋田さんは、2018年のインタビューで、88歳ぐらいの時、自分の体がしぼんでいくのを見て、

ああ、もうすぐ私も死ぬんだな

と、実感したことから、自分の死について考え始めたと明かされており(それまでは、自分が死ぬとは思わず、一生懸命仕事をしてきたそうです)、

2020年のインタビューでは、80歳手前で「狭窄症」を患って、2度の手術を経験し、その結果、動けるようになったものの、また悪くなった時に、人に迷惑をかけてまで生きたくない、と思われたことから、

延命治療はしないでほしい

葬式や偲ぶ会はせず、死んだことを誰にも知らせないでほしい

と、遺言書を書くなど、終活を始めるようになったことがきっかけだったとも明かされています。

そして、2019年2月には、

ベトナムでクルーズ中に下血して、4日間、輸血を受けました。その後、日本からお医者さまに来ていただき、山王病院に入院しました。搬送費用は保険で賄えましたが、なんと2千万円。

船上で食べすぎて、指を突っ込んで吐いたとき食道と胃を傷つけてしまったんですね。下血が止まらず身動きもとれず、“もうやめてください”と何度も頼みましたが、全然通じないし、通訳さんも訳してくれません。

ジェット機で搬送中のことはなにも覚えていませんが、麻酔で意識がないまま死ねれば満足だったと思いますね。意識があるなかで苦しい思いをして死ぬのは嫌なんです。

と、「あのとき死ねていればよかった」と思うほどの体験もされたのだそうです。

Sponsored Link

橋田壽賀子にとっての「安楽死」とは?

ただ、橋田さんが「安楽死」について発言すると、

役に立たない人間はみな死ねということ?

と、批判を受けたり、

安楽死なんてとんでもない。もっとちゃんと生きる希望を持ちなさい。一生懸命生きなさい。

と、お叱りを受けることも多々あるそうです。

これに対し、橋田さんは、

そういうことではないんです。大事なのは本人の意思で、治る見込みがなく、本人も精神的に辛いのであれば安楽死が認められる、というシステムが日本にもできたらいいな、と思うのです

と、決して命を粗末にしているのではなく、だからこそ、いかに生きるかが重要だと、

死ぬ瞬間までは元気でいたいし、自分の体は自分で動かしたいから

と、週3回、1時間ずつトレーニングに励むほか、病院に通うなど、体調管理にも務められていることを明かすと、

身寄りがいませんから、体が自由に動かなくなったら、世話をしていただくのにいっぱいお金がかかる。そう思うと、お金も自由に使えない。

まあ、船の旅には行きますけど、「これだけ使って大丈夫かな」と、不安に思いながら使うわけですよ。保険みたいに安楽死があれば、お金が安心して使える。元気なうちに精いっぱい使えるんです。

しんどくなって、動けなくなって、楽しみもなく、人の役にも立たない、人に頼らないといけなくなった時に、第三者が本人の状態や意思を確認し、そのOKをもらえれば安楽死できる。そんな仕組みがあれば、楽しく遊べるのにな、と思って。

と、今をより良く生きるためにも、自分の最期を自分で決め、

「もういよいよダメだ」と感じた時には、

お願いです。もう精いっぱい生きたんです。死なせてください

と、言えば、楽に死なせてくれる仕組みがほしいと、語ったのでした。

「橋田壽賀子は安楽死をあきらめ尊厳死に!」に続く

Sponsored Link