2018年、高畑勲さんが他界されると、駆け出しの頃から50年以上に渡って濃厚な関係を築いてこられた、宮崎駿(みやざき はやお)さんが、「お別れ会」で涙ながらに弔事を贈られています。

「宮崎駿は高畑勲に「風の谷のナウシカ」を酷評されていた!」

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高畑勲が死去

2018年4月5日、宮崎さんにとって常に憧れの存在で有り続けた高畑勲さんが、「肺ガン」のため、82歳で他界し、同年5月15日、「三鷹の森ジブリ美術館」で、しめやかに、「お別れ会」が執り行われると、

西村義明さん、二階堂和美さん、押井守さん、岩井俊二さん、富野由悠季さん、宮本信子さん、益岡徹さん、竹下景子さん、瀧本美織さん、野々村真さん、柳葉敏郎さんら関係者約1200人が参列されているのですが、

実は、宮崎さんとスタジオジブリの代表取締役プロデューサー・鈴木敏夫さんが、「ジブリとして盛大なお別れの会で見送りたい」と、生前、高畑さんが何度も足を運んでいたという「三鷹の森ジブリ美術館」で「お別れ会」が営まれたそうで、

高畑勲監督を野に咲く花たちで囲みたい。高畑監督の作品にあるどれかでもなく『祭壇風』でもない。ただ温かみのある草花たちで包み込みたい

という、宮崎さんの思いを反映して、美術館内の階段は無数の野の花で彩られ、祭壇には、そんな野の花に包まれるように、高畑さんの優しい笑顔の遺影が掲げられたそうです。


「高畑勲のお別れの会」の会場入り口

宮崎駿が「三鷹の森ジブリ美術館」でお別れ会を希望した本当の理由

ただ、高畑さんへの取材経験のあるコラムニストの小石輝さんによると、宮崎さんが、「三鷹の森ジブリ美術館」で高畑さんの「お別れ会」を営みたかった理由はほかにもあったというのです。

実は、「三鷹の森ジブリ美術館」は、迷路のように入り組んでいて、大多数の弔問客は館内に入ることができず、館外のテントで、モニター越しに「お別れ会」の様子を見守ったそうですが、

宮崎さんは、大きな斎場で見知らぬ人たちと一緒に高畑さんを見送ることに我慢ならず、あえて、自らが手掛けた「三鷹の森ジブリ美術館」で、少数の親しい人々とともに、高畑さんと最後の時を過ごしたい思われたのではないかというのです。

宮崎駿が高畑勲に贈った弔事

それでは、ここで、宮崎さんが、「開会の辞」で高畑さんに贈られた弔事をご紹介しましょう。

(高畑さんの)パクさんというあだ名のいわれはですね、定かでない部分もあるんですが、大体ものすごく朝が苦手な男でして、東映動画に勤め始めたときも、ギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして、

買ってきたパンをタイムカードを押してから、パクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたという、それで「パク」が「パク」になったという噂です。追悼文という形ではありませんが、書いてきましたものを読ませていただきます。

パクさんは、95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。9年前、私たちの主治医から電話が入った。

「友達なら、高畑監督のタバコをやめさせなさい」と真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さん(プロデューサー)は、パクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。

「パクさん、タバコをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」これは鈴木さん。弁解やら反論が、怒濤のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」 パクさんはキッパリ言って、頭を下げた。

そして本当にパクさんは、タバコをやめてしまった。僕は、わざとパクさんのそばへ、タバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。

雨上がりの水たまりの残る通りを、一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところに行くそうですね」 穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。

それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を、今もありありと思い出せる。

瀬川拓男氏は、人形劇団太郎座の主催者で、職場での公演を依頼する役目を、僕は負わされていたのだった。

次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまった時だった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。

緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。それでも、組合事務所のプレハブ小屋に泊り込んで、僕はパクさんと夢中で語り明かした、ありとあらゆることを。中でも、作品について。僕らは仕事に満足していなかった。

もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか(泣き声で『すいません』)、どうやって。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだと、うれしかった。

その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらいの幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは、大塚さんだった。

ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。(ちょっと、すいません)それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという、会社への申入書だった。

当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が、湧き上がってきました。そして、その日が来た。長編漫画第10作目が、大塚・高畑コンビに決定されたのだった。

ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家の一室に、パクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組座し、事務所と同じようにすぐ畳に寝転んだ。

なんと僕も寝転んでいた。奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていて、だるいのだそうだった。

大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会は、なかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間がのびて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」 それは意志統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。

もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは、ことの重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。

勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。

パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンの止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。

会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった(涙声)。

初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは「削れ」「削らない」の騒ぎになっているのを知っていた。

パクさんは、粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数から、カットごとの作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。当然のごとく、約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。

一体パクさんは、何枚の始末書を書いたんだろう? 僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカップの山を崩すのが、精一杯だった。

初号で僕は、初めて迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。何という圧倒的な表現だったろう。何という強い絵。何という優しさだったろう。

これをパクさんは表現したかったのだと、初めてわかった。パクさんは、仕事を成し遂げていた。(原画の)森康二さんも、かつてない仕事を仕遂げていた。大塚さんと僕は、それを支えたのだった。

『太陽の王子』(『太陽の王子 ホルスの大冒険』、高畑さんの初監督作品)公開から、30年以上経った西暦2000年に、パクさんの発案で『太陽の王子』関係者の集まりが行われた。

当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場との板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレース彩色の女性たち、美術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もう今はないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も混じっていた。

偉い人たちが「あの頃は一番面白かったなあ」と言ってくれた。『太陽の王子』の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。

パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。

55年前に、あの雨上がりのバス停で、声をかけてくれたパクさんのことを忘れない(涙声で、どうもすいません)。

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高畑勲へ贈る弔事は1ヶ月かけて書いていた

ちなみに、宮崎さんはこの弔事を何度も涙を拭いながら読まれているのですが、スタジオジブリの代表取締役プロデューサーである鈴木敏夫さんによると、宮崎さんはこの弔辞を約1カ月もかけて書き、読む練習をしている時から泣いていたそうで、

宮崎さんは、本番でも泣きじゃくったことを、「俺みっともなかった」と言ったそうですが、

鈴木さんは、

そんなことないと思いますよ。ある種、あれが今日の雰囲気を作った

宮さんにとって高畑さんは、師匠であり、先輩であり、友人であり、ライバル。そういう関係だった

と、宮崎さんを思いやられていました。

(宮崎さんは、弔事を読んだ後は、誰も見たことがないほど憔悴し切り、途方にくれた様子だったそうです)

「宮崎駿の自宅はトトロの森のある埼玉県所沢市!」に続く

弔事を読みながら何度も涙ぐむ宮崎さん(左後は鈴木敏夫さん)。

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