実家が時代劇のロケの本場だったことから、阪東妻三郎さんや嵐寛寿郎さんといった大スターを間近で観て育ち、自然と映画が好きになった、浜村淳(はまむら じゅん)さんですが、終戦後は、ラジオから流れる音楽番組やラジオドラマにも夢中になり、大学進学後は放送部に入部されます。
「浜村淳は幼少期に時代劇のロケを見て映画に夢中になっていた!」からの続き
初めての司会はピンチヒッターとして3000人の観客の前
家の近所が時代劇の撮影のロケ地だったことから、幼い頃から映画やお芝居に恵まれた環境で育った浜村さんですが、10歳の時、終戦を迎えると、その後は、ラジオから流れる音楽番組やラジオドラマにも夢中になったそうで、その後、成長し、同志社大学に進学すると、放送部に入部されます。
すると、大学では、毎年、大学野球の前夜祭(同立戦前夜祭)が円山公園の野外音楽堂で開催されており、その際、同志社大学と立命館大学の双方から、同じ人数の楽団と司会者を出すのが決まりだったため、同志社大学は、放送部からアナウンサーが司会者として出演することになったそうですが、対抗意識の強さから、立命館大学の観客からは激しいヤジが飛んだそうで、
そのアナウンサーは、
もういやや、あんな恐ろしい舞台はない
と、次の出演を断ってしまったそうです。
そこで、放送部の他の部員が、音響スタッフの見習いとして同行していた浜村さんに、
お前はアナウンサーと違うから、何を言われても平気やろ
と、言い出し、急遽、浜村さんは3000人の観客の前で司会を代行することになったそうですが、浜村さんは無難にこなしたそうで、
後に、浜村さんは、
この前夜祭での司会が、後の人生を大きく変えた
と、語っておられます。
(1955年、浜村さんが大学2回生の時のことだそうです)
ジャズ喫茶で司会ほか映画・ジャズの解説をするようになる
そんな浜村さんは、その後は、司会のほかにも、ジャズや映画の解説もしていたそうですが、それが評判となったそうで、
浜村さんの噂を聞きつけた、京都「ベラミ」、大阪「なんば一番」、神戸「月光」といったジャズ喫茶(現在のライブハウス)から出演依頼が来るようになり、学生バイトとして、司会のほか、ジャズや映画の解説をされるようになったのだそうです。
(当時は、テレビがあまり普及しておらず、娯楽が少なかったため、生歌を聴くことが一種のブームとなっており、京阪神ではジャズ喫茶が隆盛していたそうです)
淡谷のり子との思い出
ところで、浜村さんは、京都の四条河原町にあったジャズ喫茶「ベラミ」で、当時、「別れのブルース」「雨のブルース」というヒット曲を持っていた歌手・淡谷のり子さんのステージの司会をしたことがあったそうですが、
浜村さんが、淡谷さんの出番前に楽屋を訪ねると、淡谷さんは、これらの曲を最初にレコードした当初は、「こんな頽廃(たいはい)的な歌は戦意を喪失させる」と軍部から嫌われていたにもかかわらず、いざ、戦場に慰問に行き、これらの歌を歌うと、大いにウケ、歌を聴いて覚えた兵隊さんが終戦後、帰国して流行らせてくれたことを明かされたそうで、
司会の浜村さんが、いよいよ、淡谷さんがステージで歌う番となった時、このエピソードを話してから、
さあ、それでは、聴いていただきます、淡谷のり子さんの「別れのブルース」です
と、言うと、お客は大盛りあがり。
これに、淡谷さんは、大変喜んでくれたそうで、ステージを終えた後、
音楽の本を買って勉強してね
と、特別に1000円(現在の約2万円)もくれたそうで、
浜村さんは、その時、淡谷さんからもらったお金で買ったジャズの解説本を、今でも大切にとってあるとのことでした。
「浜村淳が若い頃は「渡辺プロ」の社長宅に居候してタレント活動をしていた!」に続く