学生アルバイトながら、ジャズ喫茶での司会が評判を呼び、楽しく仕事をしていた、浜村淳(はまむら じゅん)さんは、大学卒業後も引き続き司会業で身を立てようと考えたそうですが、当初は両親の反対に遭い、新聞社を受験したこともあったといいます。

「浜村淳は大学時代ジャズ喫茶で司会や映画解説のアルバイトをしていた!」からの続き

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大学卒業後は新聞社を受けるも不合格

大学での司会兼ジャズ&映画解説が評判となって、京都・大阪・神戸のジャズ喫茶からも声がかかり、アルバイトをされていた浜村さんですが、やがて、放送局からも声がかかるようになったそうで、

(特殊な仕事であることから)収入も良く、普通のアルバイトに比べ、楽だったことから(「しゃべってるだけやし」とのこと)、この仕事を続けて行こうと思っていたそうですが、両親は、堅い仕事に就くようにと反対。

そこで、浜村さんは、両親の意向を汲み、大学卒業後は、新聞社に就職しようと、新聞社の入社試験を受けられたそうですが・・・残念ながら、最終試験で不合格となってしまいます。

というのも、最終試験は、「ペンは剣より強し」というテーマが与えられた論文だったそうですが、当時、新聞社は、埼玉県本庄市で横行していた暴力団に妨害を受けながらも、一歩も引かずに暴力団についての記事を書いていたことから、純粋な学生たちは皆この記事について書いたそうですが、全員落とされたそうで、

(このことがのちに「ペン偽らず」という本として出版されるほか、「暴力の街」(1950年)と、映画化もされたそうです)

浜村さんは、

「新聞記者を志す者は、社会の裏側を見ろ」ということでしょう。

と、語っておられます。

大阪の靴下メーカーに入社するも半年で退職

そんな浜村さんは、その後、大阪の靴下メーカーに入社し、宣伝部に所属されるのですが、この靴下メーカーが、朝日放送制作によるラジオ番組のスポンサーだったことから、浜村さんは、新入社員だったにもかかわらず、番組の脚本を執筆することに。(この時、初めて「浜村淳」という芸名を使うようになったそうです

ただ、収入は減ったうえ、仕事はしんどく、半年で挫折し退職。再び、両親に内緒で、京都のジャズ喫茶「ベラミ」で司会業を始められたのでした。

「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長からスカウトされる

すると、1958年、23歳の時、「ベラミ」と提携していた「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長に、

(当時、渡辺社長は、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」というバンドで現役のベーシストとして活動し、ジャズ喫茶などで演奏されていたのですが、ほかのメンバーが、「ファイブ上手(ジョーズ)&ワン下手」と茶化すくらい、ベースが下手だったそうです(笑))

淳ちゃん、うちは月給制だから、むちゃくちゃ仕事をしても月一回しかしなくても、給料は変わらないから、おいでよ

と、誘われたそうで、

浜村さんが、

いくらくれるんですか

と、聞くと、

渡辺社長は、

(大学卒の初任給の)6倍出す
(※当時の大学卒の初任給は1万円)

と、答えたそうで、

浜村さんはこれを聞き、二つ返事でOK。

そして、「渡辺プロダクション」入社を決意した浜村さんは、芸能界でやっていきたい旨を両親に話すと、これまで反対していたお父さんが、

野たれ死にする覚悟でやれ

と、言ってくれたそうで、

浜村さんは、その言葉に背中を押され、上京したのでした。

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3代目桂米朝に落語家としてスカウトされていた

こうして、浜村さんは、渡辺普・渡辺美佐夫婦の邸宅で、「ザ・ピーナッツ」とともに居候しながら、渡辺夫婦が経営する「渡辺プロダクション」のタレントとして、テレビの歌番組の司会者などをして活動されたそうですが、引き続き、関西のジャズ喫茶でも司会をされていたそうで、

ある時、落語家の3代目桂米朝師匠に、

落語をやりませんか

いま上方落語は衰退している。弟子は小米(後の2代目桂枝雀さん)しかいない

と、落語界に誘われたこともあったそうです。

ただ、浜村さんは、ジャズや映画の解説がすでに持ち味だったため、

いまさら落語に変わるのは無理です

と、辞退。

すると、米朝師匠は、

それならそれでええ。今後、演芸について分からんことがあったら、いつでも聞きにおいで

と、言ってくれたそうで、以来、米朝師匠とは度々一緒に飲みに行くようになったほか、家にも泊めてもらうほど、親しくなったのだそうです。

「浜村淳は若い頃に東京から関西に戻って独特の芸風を確立していた!」に続く

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