浜村淳は若い頃に東京から関西に戻って独特の芸風を確立していた!


「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長の邸宅に居候しながらタレント活動を続けていた、浜村淳(はまむら じゅん)さんですが、やがて、東京での活動に限界を感じ、「渡辺プロダクション」を退職して関西に戻ると、独特の芸風を確立していきます。

「浜村淳が若い頃は「渡辺プロ」の社長宅に居候してタレント活動をしていた!」からの続き

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「渡辺プロダクション」を退職

上京後は、「渡辺プロダクション」のタレントとして、テレビの歌番組の司会などをされていた浜村さんですが、当時、全国放送での司会は、関西訛(なま)りは人々に受け入れられず、かといって、標準語で話してみても、やはり、地元の言葉ではなかったため、自分らしく自由にのびのびと話すことができなかったそうで、

ついに、上京から7年が経過した1964年、東京での活動に限界を感じ、タレント活動の拠点を大阪へ移すことを決意されると、「渡辺プロダクション」を退職されます。

標準語を京都弁に近い関西訛りでゆっくり話す芸風を確立

こうして、関西に戻った浜村さんは、再び、ジャズ喫茶やラジオ局で、ジャズや映画の解説の仕事を始めると、

特に、ジャズ喫茶では、

テレビと違い、お客さんの反応がその場で返ってきます。特に大阪のお客さんは厳しくて、単なるジャズの解説では30分ももたへん。「1000円払うたら1000円分笑わせてくれんと承知せんで」と言われました(笑)

と、厳しいお客さんに揉まれたそうで、

そんな環境で話術を磨きながら、

関西でやるなら、地元言葉の方がより親しんでもらえます。かといって、本当の話し言葉では品がありません。僕が話すのは関西訛りですが、文字にすると標準語のしゃべり方なんです

と、浜村さんの地元・京都弁に近い関西訛りで、ゆっくりと聞かせる芸風を確立。

ちなみに、浜村さんは、難しい四字熟語は使わず、英語は言い換えるなど、子どもにも分かるような易しく柔らかな語り口調を心がけているそうで、

ある時、笑福亭鶴瓶さんに、

あんたアホか。子供に物言うような話し方しますね

と面白がられたことがあったそうですが、

浜村さんは、

これ大事やと思うんですよね。分かりやすく語るというのは。鶴瓶には「これ大事やねん。これからも続けるねん」って言うたんですよ

と、語っておられます。

そして、近年では、その鶴瓶さんも、自身がとてもやさしい口調で話していることに気づき、

あっ、ほんまや

と、語っておられたそうです♪

ラジオ大阪「ヒットでヒット バチョンといこう!」で脚光を浴びる

その後、数々の番組に出演された浜村さんは、1970年には、ラジオ大阪「ヒットでヒット バチョンといこう!」の木曜パーソナリティーを務められているのですが、

深夜放送で自由だったことから、好きなことを勝手気ままにしゃべっていると、そんな浜村さんの話術が若い世代にウケ、たちまち脚光を浴びています。


「ヒットでヒット バチョンといこう!」のポスター。

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吉本新喜劇にも出演していた

また、同じ頃、横山やすしさんと西川きよしさんに誘われて、吉本新喜劇にも出演されていたことがあったそうですが、

(うめだ花月、なんばグランド花月、京都花月と、全部の舞台に出演されたそうです)

浜村さんは、その時のことについて、

漫談で出たら、後に吉本興業の社長になる中邨秀雄さんが課長の頃だったか・・・僕の舞台を観ておられて「きょう、わし、珍しい漫談観たんや」と。

「へー、どんな漫談ですか?」と僕。「客がいっぺんも笑わん漫談や」「誰がやってましたか?」「お前やないか!!」。

と、明かされています(笑)

「浜村淳の「ありがとう浜村淳です」が約50年も続いている秘訣とは?」に続く

2010年、75歳の時、40年ぶりに吉本新喜劇に出演された浜村さん(左)。隣は小籔千豊さん(中央)と島田一の介さん(右)。

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