小学2年生の時、ピアノを習い始めると、たちまち才能を発揮した、天地真理(あまち まり)さんは、小学校卒業後は、ピアノの岡田先生と同じ国立音楽大学附属中学に合格するのですが・・・

「天地真理の生い立ちは?ピアノの下に布団を敷いて寝ていた!」からの続き

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ピアノ発表会では常にトリを務めていた

小学2年生の時にピアノを習い始め、みるみる上達した天地さんは、小学5年生の時には、世田谷区民会館で開催された、ピアノの岡田先生の門下生の発表会でトリを務め、

(この日、天地さんは、朝から美容院に行って髪をアップにしてもらい、スーツを着て、ブルグミューラ作曲「アラベスク」という曲を弾いたそうです)

別の日、岡田先生の友達の発表会に特別参加された時にも、トリを務められるほど、ピアノの腕前を上げられます。


小学生の頃の天地さん。

国立音楽大学附属中学に合格するも・・・

そして、中学は、岡田先生に勧められ、国立音楽学校を受験することを決意すると、岡田先生が、自身が習っていた大先生を紹介してくれたそうで、

天地さんは、大先生のレッスンを受けるため、明大前駅(京王電鉄)にあったレッスン場まで通うと、その甲斐あって見事合格。天地さんは、1964年、晴れて、国立音楽大学附属中学に入学されたのでした。

ちなみに、ピアノの実技試験には手応えを感じるも、国語や算数などの学科試験が心配だったそうですが、お母さんと一緒に観に行った合格発表で、合格を確認できたのだそうです。

(受験当日、教室にはストーブが一台置いてあるだけで、とても寒かったそうですが、受験しに来た小学生のほか、その親が数多くおり、天地さんもお母さんがついて来てくれ、試験が終わるまで待ってくれたそうです。)

手が小さかったことからピアノ科から声楽科へ転科

こうして、天地さんは、国立音楽大学附属中学で音楽の基礎を学び、中学卒業後には、国立音楽大学附属高等学校に進学されるのですが・・・

手が小さかった天地さんは、大好きだったベートーベンの曲をうまく弾くことができず、ピアノを断念。

高校進学と同時に声楽科へ転科されると、今度は、プロの歌手を目指し、高校在学中の1969年から、ヤマハ音楽振興会附属教室ヴォーカルコースでレッスンに励まれたのでした。

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森山良子の影響でフォークソングに夢中になる

そんな天地さんは、

声楽科では「Caro mio ben」とかカンツォーネ等を歌っていました。学校が終わってからも有名な先生のレッスンに通っていました。 高校にはピアノ科のクラスが3つくらいあって全員女子。

私が進学した声楽や管楽器などは1つのクラスにまとまっていたんです。そのいろんな人が集まっているクラスには男子も8名位いて、いろんな音楽の中で刺激を受けていました。

と、声楽に励まれていたそうですが、

ある時、ラジオの深夜放送で森山良子さんの歌を聴いたことがきっかけで、フォークソングが好きになると、さっそく、新宿の「YAMAHA」にギターを買いに行き、

森山さんの「この広い野原いっぱい」や、ジョーン・バエズさんの「ドナドナ」などを歌うようになったほか、高校の学園祭では、クラスの友達とバンドを結成して出場し、弘田三枝子さんの「人形の家」を歌ったのだそうです。


「この広い野原いっぱい」(左)と「ドナドナ」(右)

こうして、天地さんは、フォークソング歌手を夢見るようになり、1970年3月、国立音楽大学附属高等学校声楽科を卒業されると、音楽大学への進学はあきらめ、同年4月、「中里音楽事務所」に所属。引き続き、ヤマハのヴォーカルスクールでレッスンに励まれたのでした。

(デビュー後の1973年には、森山さんに会われたほか、ヨーロッパ旅行の際、憧れだったジョーン・バエズさんに会ってハグもしてもらったそうで、とても嬉しかったとのことでした♪)

「天地真理はデビュー前に映画「めまい」に端役で出演していた!」に続く

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