1964年、ファーストシングル「君だけを」が大ヒットすると、その後も立て続けにヒット曲を連発し、瞬く間にスターの座へ駆け上った、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんですが、1968年頃から人気が低迷するとともに、これまで共に歩んできた、マネージャーの相澤秀禎さんと決別することになります。今回は、そんな二人が決別に至った経緯についてご紹介します。

「西郷輝彦が若い頃は御三家(橋幸夫と舟木一夫と共に)と呼ばれていた!」からの続き

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相澤秀禎とはデビューからずっと行動を共にしていた

西郷さんは、デビュー前、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で歌っているところを、後に西郷さんのマネージャーとなる相澤秀禎氏(元・サンミュージックプロダクション代表取締役会長)にスカウトされて、「竜巳プロダクション」に入社されているのですが、

ほどなくして、「竜巳プロダクション」が解散したことから、相澤氏と共に、「東京第一プロダクション」(現在の「第一プロダクション」)へ移籍。

そして、デビューから1年程経った1965年には独立し、相澤さんと共に個人事務所を設立して、社長業を兼ねながら芸能活動を続けていました。

人気低迷打破のため演歌調の「潮風が吹き抜ける町」が制作される

歌謡歌手として人気を博し、第一線で活躍していた西郷さんですが、デビューから4年目を迎えた1968年頃には、グループ・サウンズブームが起こり始め、ヒットチャートの前線にはいたものの、徐々に人気が低迷。

レコードはある程度売れてはいたものの、それ以上の大ヒットとはならなかったことから、西郷さんの所属レコード会社「クラウンレコード」は、そんな状況に焦りを感じ、なんとか現状を打破しようと、シングル「潮風が吹き抜ける町」を制作するのですが・・・

「潮風が吹き抜ける町」は、抒情的な歌詞にゆったりとしたメロディで、「星娘」「星のフラメンコ」「恋人ならば」「恋のGT」など、デビュー2年目からひた走ってきたリズム歌謡の路線とは大きくかけ離れた演歌調の曲だったことから、西郷さんはがっかりしたのだそうです。


「潮風が吹き抜ける町」

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相澤秀禎に不穏な動きを感じ始める

それでも、大々的なキャンペーンと宣伝が始まるとそうは言ってられず、西郷さんも、その流れに乗ったそうですが・・・

当時はヒット歌謡曲を映画化することが定番だったことから、「潮風が吹き抜ける町」も、当然、映画化されるものと、西郷さんは思っていたところ、ある日のこと、「日活」から、まさかの「映画化を見送る」との通知を受けたのだそうです。

そして、さらには、経理を担当していたお父さんから、

銀座の〇〇という店、知っているか?

と、聞かれたそうで、

西郷さんが、

え?いや、知らない

と、答えると、

(この時は、さして気にも留めていなかったそうですが)

お父さんは、その直後、

お前の活動とは関係ないと思われる動きが目につくのだ

と、言ったそうで、

西郷さんは、この一言にドキッとしたのでした。

「西郷輝彦は相澤秀禎に裏切られるもその後和解していた!」に続く

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