1968年、シングル「潮風が吹き抜ける町」の発売に際し、映画化の話が立ち消えになるほか、経理をしていたお父さんから、相澤秀禎氏の不審な動きを知らされ、不安を覚えた、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さんですが、その後、不安は的中。相澤秀禎氏と決別することになります。

「西郷輝彦が相澤秀禎と決別に至った経緯は?」からの続き

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相澤秀禎が映画会社の関係者と親密に話し合っている姿を目撃する

経理をしていたお父さんから、西郷さんの知らない、銀座の〇〇という店の領収書の存在を知らされたうえ、

お前の活動とは関係ないと思われる動きが目につくのだ

と、言われ、不安を募らせた西郷さんですが、

それからほんの少しして、個人的にお世話になっていたある人と久しぶりに飲みに行くことになると、指定された場所は、お父さんから聞いていた、あの「〇〇」という店だったそうで、西郷さんは、この時、言いようのない胸騒ぎを覚えたそうです。

そんな西郷さんは、お店に入り、席についても落ち着かず、ゆっくりと恐る恐る店内を見回してみると、そこには、映画会社の関係者と親密に話合っている相澤氏の姿があったのだそうです。

相澤秀禎に裏切られていた

思い返せば、その数ヶ月前から、全くといっていいほど、これはと思えるような充実する仕事が来ず、ほとんどこなせば済むような内容のものばかりだったそうで、そうこうするうち、「潮風が吹きぬける町」の映画化の話も立ち消えになり、

「西郷輝彦-潮風が吹きぬける町」として制作されるはずだった映画は、いつの間にか、デビューを目前に控えた大型新人タレント・森田健作さんを売り出すための「森田健作-青春-松竹」にすり替わっていたことに、西郷さんは気づいたそうで、

西郷さんは、相澤氏の進みたがっている方向が分かり、認めたくはなかったものの、この時、初めてすべてを悟ったのでした。

相澤秀禎と決別

その後、時間が経てば経つほど、相澤氏との関係はぎくしゃくしたものになっていったそうで、このどうにもならない状況に決着をつけるため、西郷さんは、ついに、相澤氏と真正面から話し合うことを決意。

西郷さんが相澤氏に、

よし、二つに一つにしよう。ウチの事務所で新人もやるか、それともあなたが出て行って一人で新人の世話をするか、だ。どうする?

と、問うと、

相澤氏は、

君と別れてやりたい

と、言ったのでした。

すべてを失い事務所をたたむ

そして、この回答に改めて打ちのめされた西郷さんは、相澤氏の息のかかった社員全員に出ていくように頼んだそうですが、なんと、事務所に残ったのは、当時付き人だった岩本茂樹さん、たった一人だけだったそうで、

(西郷さんは、一緒にやりたいと思う人だけ残ればいいと思っていたそうですが、ふたを開けると、岩本さん以外、きれいに誰もいなくなっていたそうです)

西郷さんは、その時を振り返り、著書「生き方下手」で、

めまいを覚えた。何もかも失ったことを痛感した。もう事務所をたたむしかなかった。当時、事務所は東京都港区溜池にあった、クラウンレコードの上階のフロアを借りていた。

最後の日——岩本君がポロポロと涙を流していた。掃除をし、事務所を片付ける。そして灯りを消した。それが昭和40年から続いてきた日盛プロ、最後の光景だった

苦楽をともにした彼だったけれど、一緒に仕事をしてきたその最後は、裏切られるかたちとなった。ぼく自身が17歳で、第一プロから独立したときのことをまざまざと思い出した。

ああ、あのときと同じだ。今回、負けたのは僕の方だ。

わずか四年前、飛ぶ鳥を落とす勢いだった僕が選んだのは、周囲からは強引とみられた方法で事務所を独立することだった。今度はそれと全く同じことが、自分にふりかかっていた。

人気稼業の芸能界だからこそ、鮮明にイメージできる話だが、どこの世界でも同じことは起きているのだろう。僕は、自分がやった同じ方法でやり返されてしまったことになる。

例えようのない喪失感だった。もうゼロに戻るしかないと思った。自分がこのまま社長を続けられるはずもなく、とにかく自分がもう一度力をつけていくしかないことを痛感していた。裸になろうと思った。もう一度、ゼロからやり直そう、と。

と、綴っておられます。


生き方下手

(西郷さんは、1969年9月、個人事務所を閉鎖し、「第一共栄事務所」に移籍。一方、相澤氏は、西郷さんと別れた後、1968年に「サンミュージックプロダクション」を設立されています)

相澤秀禎と和解していた

ただ、その後、長い年月の間には、相澤氏と仕事の現場で出会うことも多く、時間の経過とともに相澤氏との関係は修復し、冗談を言い合って昔話に花を咲かせるようにもなったそうで、

1989年、西郷さんの25周年記念パーティーには、相澤氏が多忙な中かけつけてくれ、一緒に飲んだ直後、

うち(サンミュージック)に来ないか

と、言ってくれたのだそうです。

(当時、西郷さんは、「西郷エンタープライズ」という個人事務所を経営していたのですが、金銭的に厳しかったそうで、それを知った相澤氏が声をかけてくれたのでした)

これには、さすがに、ありがたいとは思いつつも、少し考え、

せっかく仲も戻り、こういう話ができるようになった。関係が落ち着いてきたのだから、しばらくはこのままでいようよ

と、相澤氏に伝えたそうですが、

最後は裏切られたとはいえ、青春時代をともにしたかけがえのない存在だった、相澤氏のその想いがうれしかったそうです。

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相澤秀禎の死後「サンミュージック」と業務提携

その後、時は流れ、相澤氏は、2013年、すい臓ガンのため83歳で他界されるのですが、西郷さんは、2015年には、相澤氏が設立した「サンミュージック」と業務提携。

2018年には、「サンミュージック」創立50周年記念式典に参加すると、相澤氏との思い出を笑顔で語りつつ、

会長が元気なときに、一緒にやりたかった

と、偲ばれています。

「西郷輝彦は若い頃「どてらい男」が大ヒットしていた!」に続く

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