今回も、市村正親(いちむら まさちか)さんの父親・信行さんのお話から。旧満州で、国境警備の任期終了後、軍隊に残らず、北京で「華北交通株式会社」に入社すると、反日感情の激しい沿線の住民に鉄道敷設を受け入れさせるという任務に就くも、親しくしていた地元の有力者が、反日中国人ゲリラに殺害されてしまい、自責の念により、日本に帰国した信行さんですが、ほどなく、栗原こうさん(市村さんの母親)とお見合いにより結婚し、やがて、市村さんが誕生します。
「市村正親の父親はエリート軍人だった!」からの続き
父親・信行が栗原こう(市村正親の母親)と見合い結婚
北京では、自分と親しくしていた地元の有力者が、反日感情を持った中国人ゲリラに殺害されるという事件が起こり、「自分と親しくしていたばかりに」と落ち込み、帰国した信行さんですが、
故郷・川越市に戻ると、すぐに見合い話が舞い込んできたそうで、このことがきっかけで、隣村の農家の娘で、21歳の栗原こうさん(市村さんの母親)と結婚。
(栗原家は、地域でも有数の農家だったそうです)
ただ、信行さんは、この時、戦争中の壮絶な体験を思い出しながら、生き残った自分がやるべきことは何なのかと、思い悩んでいたそうで、まもなく、長男の正親さんが誕生すると、
子供に恥ずかしくない仕事がしたい
と、思うようになったそうです。
父親・信行が新聞社「武州新報」を立ち上げる
そこで、信行さんは、(農家の長男だったのですが、跡は継がず)様々な商売を転々とすると、地元で新聞を発行する仕事を思いついたそうで、
昭和25年(1950年)10月、たった一人で、新聞社「武州新報」を立ち上げると、自身で取材をし、広告を取り、2ヶ月に1回のペースで発行。
(新聞は1部4ページで、月額30円だったそうです)
ただ、小さな地域だったため、すぐに発行部数は伸び悩んでしまったそうです。
母親・こうが始めた大衆居酒が大繁盛
そんな中、妻・こうさんが、夫を支えようと、小さな店を借りて大衆居酒屋を始めると、こうさんの飾らない人柄と面倒見の良さで、すぐに店は大繁盛したそうです。
大衆居酒屋「いっちゃん」でお店を切り盛りする母親・こうさん。
ちなみに、同時期、信行さんに軍人恩給支給の知らせが届くも、信行さんは、
戦争で生き残った俺にもらう資格はない
と、受け取りを拒否したそうですが、
それを聞いたこうさんも信行さんに賛同したそうで、こうさんは常に信行さんに寄り添ったのだそうです。
幼少期から人を喜ばせることが好きだった
そんな両親のもと、市村さんは、長男(一人っ子)として誕生しているのですが、3歳の時には、川越の秋の山車祭りで、「テンテンツクツク」というお囃子(はやし)を聞くと、腰を引いたり回したりと、音に合わせて体を動かすのが好きで、太鼓や笛の音がにぎやかなその中に入って、一緒に踊ることに憧れる子供だったそうです。
また、お母さんの居酒屋のカウンターの上で山車祭りの白虎をまねて踊ると、お客さんが喜んでくれ、その喜ぶ姿を見て、自分もまた嬉しくなるなど、一人っ子のさびしさから、人が楽しんでくれることをするのが好きだったそうで、
市村さんは、
兄弟がいないから近所の子と遊んでいて、周りの人たちを気持ち良くすると、自分自身も気持ち良くなる。周りが喜んでくれることを何かやれば、自分がさみしい思いをしなくて済む。子供心にそう感じていました。
と、語っています。
(お客さんは、時々、おひねりとして10円くれたそうで、これが市村さんのお小遣いとなったそうです)
「市村正親は小学生の時から映画館通いし俳優に憧れていた!」に続く
(左から)母親のこうさん、市村さん、父親の信行さん。