2歳の時にお母さんが他界し、幼い頃は引っ込み思案だったという、篠原涼子(しのはら りょうこ)さんですが、中学生になると不良仲間とつるむようになり、やがて、歌手の中森明菜さんに憧れ、歌手を目指すようになったそうです。
「篠原涼子の生い立ちは?幼少期は?中学時代はヤンキーだった?」からの続き
中森明菜に憧れて歌手を目指す
中学生になると、不良仲間とつるむようになり、ヤンキーになったという篠原さんですが、一方、歌手の中森明菜さんのファンだったそうで、やがて、中森さんに憧れ、中学2年生の時には、お父さんに内緒でオーディションを受けたそうですが、あえなく落選。
ただ、これをきっかけに、以降、オーディションを受けるようになると、やがて、お父さんが、オーディションに着ていく服をチェックしてくれるほか、芸能界に入った時に、困らないようにと、毎晩、篠原さんの脚の切り傷にクリームをぬってくれたり、一緒に履歴書を書き、応募する写真もどれが一番かわいく写っているか選んでくれるなど、献身的にサポートしれてくれるようになったそうです。
また、義理のお母さん(お父さんの再婚相手)がスナックを経営していたことから、カラオケを歌わせてもらって歌の練習にも励んだそうです。
現在の所属事務所のオーディションに合格し芸能界入り
そんな篠原さんは、1989年、15歳の時、雑誌「月刊デ・ビュー」で、現在の事務所「ジャパン・ミュージックエンターテインメント」のオーディションがあるのを知り、受けると、見事合格。
15歳の終わり頃には、地元・群馬を離れ、上京したそうですが、
後に、篠原さんは、
(一番好きな歌は)中森明菜さんの「スローモーション」ですね。一番最初に買ったCDがこの曲で、自分のお年玉で買いに行ったのをすごい覚えていて、一番大好きでした。
自分自身が芸能界に入りたいなっていう夢を志した時にオーディションを受けた時の曲がその曲だったんです。その曲では合格しなかったんですけど(笑)・・・
しかも、違うオーディションを受けた時に違う曲を歌って合格したんですけど(笑)、いまだにその曲を聞くとものすごくその時の光景がよみがえってきて、緊張したりとかうるっときたりする時がありますね。
と、明かしています。
上京当初は極貧生活だった
さておき、上京当初、篠原さんは、従業員用の寮で、後の「東京パフォーマンスドール」のメンバーとなる女の子と二人暮らしをし、一組の布団で一緒に寝ていたそうで、全く知らない女の子だったため、最初はギクシャクしたほか、
経済的にも厳しく、新宿にある「吉亀寿司」でアルバイトをしていたそうですが、食事に事欠くこともあったそうです。
(寮は、古い木造の6畳間で、部屋にはゴキブリがよく出たそうですが、なぜか、隣の部屋の男性が見ていたアダルトビデオの映像が、篠原さんの部屋のテレビにも映ったそうです(笑))
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