京都産業大学の学生だった頃は、いつも、清水国明さんと原田伸郎さんとつるんでいたという、笑福亭鶴瓶(しょうふくてい つるべ)さんですが、後に大ブレイクする「あのねのね」にも、当初は参加していたといいます。

「笑福亭鶴瓶は学生時代 清水国明と原田伸郎とつるんでいた!」からの続き

Sponsored Link

清水国明と原田伸郎が意気投合して「あのねのね」を結成

鶴瓶さんが、京都産業大学の落語研究会の仲間だった原田伸郎さんに、清水国明さんとアルバイトをしていた「三木半旅館」を紹介したことで、つるむようになった三人ですが、

やがて、清水さんと原田さんが意気投合し、フォークソンググループ「あのねのね」を結成したそうで、

そこに、京都産業大学の落語研究会の仲間だった玲子さん(後に鶴瓶さんの奥さん)ほか数人もメンバーに加わり、活動するようになったそうです。(一時期は10人いた時もあったそうです)

鶴瓶も(後の)嫁と共に「あのねのね」のメンバーだった

一方、鶴瓶さんはというと、当初は「玲子は原田伸郎を好きなんかもしれない」と心配して、練習を見ているだけだったそうですが、清水さんに「お前も歌え」と言われ、仕方なくメンバーに入ると、

清水さん、原田さん、玲子さんと4人で、丸山公園音楽堂で行われた「ヤマハ・ライトミュージックコンテスト京都大会」に出場し、「ひょっこりひょうたん島」を、玲子さんがヴォーカル、清水さん、原田さんがそのバックで演奏し、鶴瓶さんは観客席で踊ったそうです(笑)

「あのねのね」が大ブレイク

その後、このコンテストをきっかけに、清水さんが、京都・河原町のビルの屋上のビアガーデンで歌う仕事を見つけてきたそうですが、

鶴瓶さんによると、

僕は嫁を飲み屋で酔っ払い相手に歌わすのはいやだったから、「辞め」って言って辞めさせたんです。僕はその頃はもう落語家になろうと思っていました

と、程なく、鶴瓶さんと玲子さんは脱退。

ただ、清水さんと原田さんの二人だけになった「あのねのね」は、1973年3月、「赤とんぼの唄」でメジャーデビューすると、35万枚を売り上げる大ヒットを記録。

その後も、「魚屋のオッサンの唄」など、コミカルな曲をリリースするほか、ライブでもコミカルなトークを披露し、一躍人気を博したのでした。

Sponsored Link

「あのねのね」のブレイクには喜び半分と嫉妬半分だった

一方、その頃、鶴瓶さんはというと、プロの落語家を目指して悪戦苦闘。

それでも、ネタにつまった原田さんから「なんかええネタないか」と電話があると、落語の小咄(こばなし)などを教えてあげたそうですが、

それらを歌にした原田さんと清水さんが、またまたヒットし(「つくばねの唄」など)、コンサート、テレビ、ラジオと活躍の場をひろげていったそうで、

鶴瓶さんは、仲の良い清水さんと原田さんがブレイクする姿を嬉しく思う反面、軽い怒りと嫉妬も覚えたのだそうです。

「笑福亭鶴瓶の嫁との馴れ初めが素敵すぎる!」に続く

Sponsored Link