1964年、16歳の時、「ザ・スパイダース」に加入し、1965年5月には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューした、井上順(いのうえ じゅん)さんですが、「ザ・スパイダース」は、実力は認められるも、セールス的にはいまいち。そんな中、自分たちのスタイルではない楽曲で大ヒットを飛ばします。

「井上順の若い頃は堺正章らと「スパイダース」で活動していた!」からの続き

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「夕陽が泣いている」が120万枚を売り上げる大ヒット

実力派バンドと高く評価されるも、歌謡曲の勢いが強かった当時の日本では、セールス的には成功を収めることのできなかった、井上さんら「ザ・スパイダース」ですが、

1966年9月、当時ヒットメーカーだった、浜口庫之助さんが作曲を担当した「夕陽が泣いている」をリリースすると、レコード売上120万枚を超える大ヒットを記録。これで、「ザ・スパイダース」は、一躍スターダムに駆け上がります。


夕陽が泣いている」より。

そして、その後も、

1966年12月「なんとなく なんとなく」
1967年3月「太陽の翼」
     4月「バラ・バラ」
     7月「風が泣いている」
     8月「あの虹をつかもう」
     10月「バン・バン・バン」
1968年3月「あの時君は若かった」

と、立て続けにシングルをリリースすると、順調にヒットを飛ばし(特に、「風が泣いている」は70万枚超の大ヒット)、

1967年5月には「夕陽が泣いている」、同年8月には「ザ・スパイダースのゴーゴー・向う見ず作戦」で、映画にも出演するなど、「ザ・スパイダース」の人気は絶頂期を迎えたのでした。

井上順は「ザ・スパイダース」の中でもダントツの人気だった

ちなみに、コンサート時、井上さんは、堺正章さんと共にMCを担当していたのですが、

堺さんによると、

ヨーロッパにいる間に「夕日が泣いている」に火がついたの。帰ってきたら空港にメンバーを待つファンが押し寄せてきて、もうコンサート状態みたいだった。

でも、自分なりに声援を分析すると、「(井上)順ちゃ~ん!」が多かったね。すごかったよ、和製ポール・マッカートニーって言われてたんだから。

と、井上さんの人気はダントツだったようです。

また、堺さんは、

これじゃ俺はやばいぞと思って、笑いの世界に引き込んだんだよ(笑)「どうやってやるの?」っていうからコケ方を教えた。そしたらどんどん人気が落ちていったの(笑)

とも、語っており、

堺さんと井上さんの、飾らない人柄と軽快なトークで、さらなる多くのファンの心をつかんだようです。

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ヒットメーカー・浜口庫之助に楽曲制作を依頼していた

ところで、「ザ・スパイダース」を一躍スターダムに押し上げた「夕陽が泣いている」。この曲は、歌謡曲調のメロディが特徴なのですが、

実は、「ザ・スパイダース」の設立者でリーダーの田邊昭知さんが、何が何でもヒット曲を出そうと、当時、ヒットメーカーだった浜口庫之助さんに依頼して出来上がったものだったそうです。

そのため、これまで、「ビートルズ」や「ザ・ローリング・ストーンズ」などブリティッシュ・ビートの影響を色濃く受け、自分達で楽曲を制作・演奏していたメンバーは、ブリティッシュ・ビートとはかけ離れ、まるで歌謡曲の「夕陽が泣いている」を聴き、全員が絶句したといいます。

それでも、一流ヒットメーカーの浜口さんの作品に文句をつけることはできず、なんとか、「ザ・スパイダース」らしいアレンジを加え、完成させたのだそうです。

「井上順が若い頃は「お世話になりました」が大ヒットしていた!」に続く


「夕陽が泣いている」(クリックでyoutube)

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