愛人の息子ということで、自由にお父さんに甘えることが出来ないながら、その分、母親に溺愛され、何不自由なく甘やかされて育ったという、愛川欽也(あいかわ きんや)さんですが、やがて、戦争ムードが色濃くなり、信州に学童集団疎開すると、食べ物もろくにない疎開生活に耐えかねたといいます。

「愛川欽也の生い立ちは?母親から溺愛されて育っていた!」からの続き

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戦争が始まり信州に学童疎開

愛人の息子ながら、お母さんに溺愛され、何不自由なくのびのび育ったという愛川さんですが、1941年(昭和16年)12月、日本がハワイの真珠湾を急襲して大東亜戦争が始まると、

1944年頃には、政府の方針で信州の上田に学童集団疎開することになったそうで、都会の恵まれた環境で育った愛川さんには、食べ物もろくにない疎開生活はとても厳しいものだったそうです。

(子供は都会にいると危険なため、田舎に疎開させられたそうですが、親戚などの縁故のない子供は学校でまとめて田舎の寺や旅館などに連れて行かれたそうで、愛川さんも田舎の親戚がいなかったため学童疎開させられたそうです)

空腹のあまり夜中に炊事場に忍び込み洗い物の釜の焦げを食べたことも

ちなみに、食事は、大きな鍋に、わずかなお米と、「沖縄」という名前の岩のような形のさつまいもをぶつぶつと切って入れ、味噌と塩で煮込んだだけの雑炊が毎日出たそうで、まずいうえ、食べてもすぐにお腹が減ったことから、

ある夜には、愛川さんは空腹に耐えかねてそっと部屋を抜け出し、手伝いのおばさんたちが帰った後の炊事場をのぞくと、空になった釜に水が張ってあり、中をよく見ると、水面に釜の底にこげついたものがいくつも固まりとなって浮かんでいたことから、

浮かんでいるものを、そばにあったどんぶりにすくって入れ、塩を見つけてきて、少しかけ、鼻をつまんで口に入れ、以前、湿ったせんべいを食べた時のことを必死に思い出しながら、ぬるっとしたその固まりを飲みこんだそうですが・・・

あまりにも、ひどい味で、どんぶりを洗って元に戻し、そのまま炊事場を出たそうです。

早く迎えに来てほしいあまりアメリカの爆撃がもっとひどくなればいいと思っていた

そんな中、翌年の1月中旬頃、面会に来たお母さんから、(空襲が激しくなり)もう巣鴨(自宅)にはいられなくなりそうなので、その時は迎えに来るから誰かを頼って一緒に田舎に疎開しようと言われたそうで、

愛川さんはそれを聞き、早く迎えに来てほしいあまり、アメリカの爆撃がもっとひどくなればいいのに、とさえ、思ったそうです。

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母親は着物と交換した砂糖で作ったかりんとうを差し入れてくれていた

また、次の日、お母さんは、帰る前、ほかのみんなに内緒でかりんとうが入ったお茶の空き缶を置いていってくれたそうで、数えると、かりんとうは28個あり、そのうちの一つをそっと口の中に入れると、油のしみた甘さが口の中に広がったそうで、そのおいしさは、今でも忘れられないそうです。

それからというもの、愛川さんは、夜、みんなが寝静まると、布団を抜け出し、行李(こうり)の中に隠してあるお茶の缶のふたを開けて、そっと1本かりんとうを取り出し、缶のふたを閉めて行李を元通りに戻し、布団に戻って落ち着いてから、かりんとうを口の中に入れたそうですが、少しでも長く楽しみたいと、噛むことはせず、ゆっくりと口の中で砂糖が溶けていくのを味わいながら食べたそうです。

ただ、当然、やがて、かりんとうはなくなってしまい、また、いも入り雑炊だけの空腹な生活が始まると、頻繁にお菓子の夢を見たのだそうです。

(ちなみに、そのかりんとうは、小麦粉と砂糖をこねて細い棒状にし、油で揚げたものだったそうですが、砂糖が手に入らない戦争中でも、東京の自宅から歩いて5分ほどのところにあった、東京で有名なお屋敷町の大和郷(やまとむら)に住む偉い軍人さんの家には、1945年になってもまだ砂糖があったそうで、お母さんは、その家の奥さんに頼んで着物と砂糖を交換してもらっていたのだそうです)

「愛川欽也は少年時代に疎開先を脱走し一人で汽車に乗って帰宅していた!」に続く

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