幼少期は裕福な家庭で何不自由なくのびのびと育つと、中学・高校は、エスカレーター式のお嬢様学校に通うも、校則が厳しく、授業がつまらないと、いつも保健室で過ごしていたという、浅田美代子(あさだ みよこ)さんですが、高校2年生の時、スカウトされたことで人生が一変したといいます。

「浅田美代子の生い立ちは?少女時代は裕福な家庭でのびのび育っていた!」からの続き

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高校2年生の時にスカウトされる

浅田さんは、1971年、高校1年生の時には、モデルにスカウトされ(この時は断ったそうです)、1972年、高校2年生の時には、ローティーン向けファッション雑誌「セブンティーン」の「街で見かけた女の子」というコーナーに、銀座を歩いていた時の写真が掲載されるほどの美少女ぶりだったそうで

同年(1972年)夏、再び、街でスカウトされると、もともと芸能界には興味はなかったものの、スカウトの人が熱心に家を訪ねてくるうちに、芸能界に関心を持つようになったそうです。

(スカウトに関しては、青山のバザールで買い物中 「芸映プロダクション」の相馬一比古氏(後の「アクト・ワン」社長でピンク・レディーのプロデューサーとして有名)にスカウトされたという話など諸説あります)

「時間ですよ」新人オーディション(参加者2万5千人の超難関)に合格

ただ、浅田さんの両親は娘の芸能界入りに大反対だったそうで、事務所側が、苦肉の策として、テレビドラマ「時間ですよ」の新人オーディション(2万5000人が参加)への参加を提案すると、ようやく、両親は、(受かるわけがないから)これがダメなら潔く芸能界入りをあきらめる、という条件で承諾。

(浅田さんは、両親に、「落ちたらもう二度とそういうことは言わないように」と言われたそうです)

すると、浅田さんは、見事、参加者約2万5000名の中から見事選ばれ、高校2年生の時、急遽、芸能界に入ったのでした。

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オーディションの合格を聞いたその足で自ら退学届を提出し高校中退

ちなみに、浅田さんは、オーディションの合格を聞いたその足で、そのまま学校へ向かい、自ら退学届を提出したそうで、

(オーディションの結果が翌朝のスポーツ紙に掲載されることになっていたそうで、浅田さんの通う高校は校則がとても厳しく、芸能活動をしていることが知れたら、即退学だったことから、退学させられる前に退学したのだそうです)

後に、浅田さんは、その当時を振り返り、

あまりに突然のことに担任の先生はびっくり。当時の私は保健室の常連だったので、「キビシイ世界なのにやっていけるのか」と体のことまで心配してくれました。

でも、保健室に行っていたのは単なるサボり根性から(笑)先生には「ごめんなさい!」と心の中で謝って、その場をあとにしました。

今思えば「数日後の期末テストからも逃れられる!」という悪知恵も働いて、より積極的になれたのかも。たった一日で人生が大きく変わった訳だけれど、後悔は全くありません。これが天職だったんですね。

と、語っています。

また、あれだけ芸能界入りを反対していたお母さんも、最終的には味方になってくれ、退学届を提出する時も一緒についてきてくれたそうです。

(その後、お母さんからは、「偉そうにするな」「芸能人だからって、特別でも何でもない。少しでもそういう態度をするなら、今すぐ仕事を辞めなさい」とよく言われたそうで、その言葉は、今も浅田さんの大事な教えとなっているそうです)

「浅田美代子が若い頃は「赤い風船」でアイドル歌手としてブレイクしていた!」に続く

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