1966年11月に初めて国立劇場が開場するに先立ち、8月に東京宝塚劇場(東宝)から国立劇場の芸能部に移籍してきた伊藤信夫さんは、やる気のない人ばかりの吹き溜まりの中、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんをスターとして売り出す計画を思いつき、14代目守田勘弥さんに打ち明けると、驚かれるも話がまとまり、坂東さんの稽古がいよいよ開始します。

「坂東玉三郎を国立劇場のスターにする計画は本人に内緒で進んでいた!」からの続き

Sponsored Link

養父の14代目守田勘弥は坂東玉三郎が大役「時鳥」役を務められるか心配でならなかった

伊藤信夫さんが、坂東さんを国立劇場のスターにしようと思いつき、坂東さんの師匠で養父の14代目守田勘弥さんに、国立劇場での公演「曾我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」で、坂東さんを「時鳥」役に抜擢したいと、話を持ちかけると、話がまとまり、坂東さんは、内情を知らされぬまま、稽古を開始するのですが、

「時鳥」役のような大役が務まるのかと、坂東さん本人よりも、勘弥さんの方が緊張していたそうで、伊藤さんによると、勘弥さんの顔は引きつり、「胃が痛くなる」と漏らしていたそうです。

伊藤信夫は坂東玉三郎を14代目守田勘弥との共演で注目させようとしていた

そんな中、若い役者を売り出すためには、同世代の人気のある役者と共演させるという方法と、

(例えば、松竹は、尾上菊之助さん、 市川新之助さん、 尾上辰之助さんの3人を「三之助」としてセットで売り出しました)

ベテランの役者で周りを固め、その中で若い役者を活躍させるという方法があったそうですが、

(新人を主役に抜擢し、その両親や祖父母などをベテランの名優で固める、NHK朝の連続テレビ小説などが、この方法)

伊藤さんは、坂東さんを後者の方法で売り出そうと考えていたそうです。

Sponsored Link

伊藤信夫は14代目守田勘弥に息を合わすことだけに集中するよう伝えていた

そこで、伊藤さんは、坂東さんが、勘弥さんの相手役として互角に渡りあえれば注目されるだろうと考え、それを勘弥さんに伝えたそうですが、

勘弥さんと坂東さんとでは40年以上のキャリアの差があることから、到底互角にできるはずなどなく、勘弥さんにはそれが分かっているからこそ、胃が痛くなるほど心配だったそうで、

伊藤さんは、

息だけ合わせてください。 功をあせって、ごじゃ(むちゃくちゃに)さぬように

と、アドバイスしたのだそうです。

(伊藤さんは、芝居において最もいけないことは、役者同士の息が合っていないことだと考えており、たとえ、役者個人個人が熱演や名演をしたとしても、息が合わずに芝居がバラバラでは、観客はしらけるだけと、「下手でもいい、息の合った芝居さえしてくれたら、客に息を呑ませることができる」と信じていたそうです)

「坂東玉三郎は若い頃「曾我綉侠御所染」の「時鳥」役で評判になっていた!」に続く

Sponsored Link