1959年、作曲家・中村八大さんとのコンビで作詞した「黒い花びら」がいきなり大ヒットを記録すると、以降、作詞家として引っ張りだことなり、「上を向いて歩こう」など、数々の名曲を世に送り出した、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな永さんの奥さんについてご紹介します。

「永六輔のデビューからの作詞作品と著書を画像で!」からの続き

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妻には一目惚れだった

永さんは、1955年、22歳の時、元女優の昌子さんと結婚しています。

永さんは、まだ無名の放送作家だった頃、日本テレビの廊下で、女優デビューしたばかりだった昌子さんを見て一目惚れしたそうで、

君は女優よりも僕の妻になるべき人だ

と、強引に口説いて、スピード婚をしたのだそうです。

(昌子さんの育った家庭は、堅い職業の家柄だったそうで、永さんは、僧侶である自身のお父さんに筆と巻紙で手紙を書いてもらって、昌子さんの両親に挨拶に行き、結婚を許してもらったのだそうです)

結婚後も妻にべた惚れだった

そんな永さんは、結婚後も、昌子さんへの気持ちは変わらなかったそうで、著書「生き方、六輔の。」で、

これまでずっと、この仕事をやってる中では相当大事にしてきたと思いますよ。それに女房は、愚痴とか文句とか一切言わない人だったからね。

奥さんは、(でしゃばりではなく)引っ込む人。もともとそういう性質だったんだろうね。僕に言わせれば、才能はあるし、しゃべると面白いし。で、誰が見ても文句なしの美人だし。

と、語っており、昌子さんにベタぼれだったようです。

また、娘の永麻理さんによると、永さんは、昌子さんに面と向かって褒めていたそうで、時には、娘たちに向かって、

うちの昌子さんは本当に素敵だね!

と、嬉しそうに話すほか、夫婦一緒に歩くときは必ず手を繋ぐなど、娘の目から見ても、永さんの昌子さんへの惚れ込みようは相当なものだったそうです。

(ちなみに、永さんと昌子さんは、お互い名前で呼び合っていたそうです)


生き方、六輔の。

妻が末期ガンで余命2、3ヶ月と宣告される

しかし、そんな昌子さんも、2002年には、「胃ガン」のため、68歳で他界。

実は、昌子さんは、病気らしい病気をしたことがなかったそうですが、2001年6月、珍しく、体調を崩し、検査を受けたところ、末期ガンと診断され、この時、余命2、3ヶ月と宣告されたのだそうです。

妻は在宅看護を希望していた

そして、昌子さんは、かねてより、在宅看護を希望していたことから、永さんは仕事を最低限に絞り込み、娘さん2人とともに、フル稼働で看護したそうですが、

昌子さんからは、「毎日必ず笑わせて」と言われたそうで、実質的には、娘さんたちが看護を、永さんが笑い話を担当したのだそうです。

(永さんのお母さんは、在宅看護の末、息子の永さんの腕の中で穏やかに息を引き取ったそうですが、昌子さんは、そんな義母の姿を見ていたことから、いつも、「私もあんな死に方をしたい」と、在宅看護を希望していたのだそうです)

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同じ話に何度も笑い転げる妻の姿を見て悲しくなっていた

ただ、毎日おかしい話をするも、そうそう毎日は続かず、とびきり面白い話なら2回してもいいことになり、永さんは、古くからの友人の黒柳徹子さんの話をしたそうです。

それは、黒柳さんと回転寿司屋に一緒に行った時のこと、黒柳さんの目の前に、お皿が積んであったそうで、

黒柳さんは、

かわいいお皿!はい永さん

と、言って、お皿を配り始めたそうですが、

実は、そのお皿、黒柳さんの隣に座っていたおじさんのものだったようで、

おじさんから、

私のです

と、言われたそうです。

しかし、黒柳さんはというと、

お店のでしょう

と、言い返したそうで、

おじさんも、負けじと、

お店のですが、私のです

と、言い返した・・・

という話だったそうですが、それを聞いた昌子さんは、ひっくり返って笑ったそうで、永さんは、何度も何度もこの同じ話をし、昌子さんも何度も何度も笑ったそうですが、永さんには、かえって、それが悲しくて仕方なく、泣いてしまったといいます。

「永六輔の妻への想いが一途過ぎる!娘は?孫は?」に続く

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