幼少期は、休日の度に両親に映画館に連れて行ってもらうなど、楽しい日々を過ごしていたという、高木ブー(たかぎ ぶー)さんですが、やがて、戦争一色となり、「東京大空襲」を経験したといいます。
「高木ブーの幼少期は両親にとても可愛がられて育っていた!」からの続き
12歳の時に戦争が激しくなる
幼少期は、毎日が穏やかで楽しいことばかりだったという高木さんですが、1945年、12歳の時には、東京の街は戦争一色となり、米戦略爆撃機「B29」がしょっちゅう飛ぶようになったそうで、
(そのたびに空襲警報が鳴り響いたそうです)
同年3月10日午前0時直後には、約300機の「B29」が一般の住宅を標的に東京の東側の下町に爆撃を開始(東京大空襲)。
空襲は3月10日未明まで続くと、一晩で10万人の一般自民が亡くなるという、かつてないほどの最悪な空襲となります。
東京大空襲を経験
そして、同年4月13日には、高木さんが住んでいた巣鴨の辺りにも、327機もの「B29」が爆撃を開始したそうで、
(3月10日の空襲を上回る2,119トンの爆弾が、今までの空襲で最長となる3時間にも渡って投下されたそうですが、そのうち96.1パーセントが焼夷弾だったそうで、29.5平方キロメートルが消失したといわれています)
空襲警報が鳴り響き、焼夷弾(しょういだん)が降ってくると、高木さんの家にも火の手が上がり、高木さんとお父さんは、燃えている家の火を消そうとしたそうですが、焼夷弾は、油が詰まった筒がはじけ飛んで燃えだすことから、水をかけても火は消えなかったそうで、
(「隣組」(第二次大戦下、国民統制のために作られた地域組織)では、バケツリレーの練習をしていたそうですが、何の役にも立たなかったそうです)
やがて、火を消すことは到底無理だと判断したお父さんと一緒に、小石川植物園を目指して逃げることになったそうですが、辺り一面は火の海だったそうで、飛んでくる火の粉を浴びないように、布団を二つ折りにして頭にのせて走り、無事、小石川植物園まで逃げ切ることができたのだそうです。
(小石川植物園は、自宅から2~3キロの所にあったそうで、そこでは、先に逃げていたお母さんとも再会でき、近所の人達もみんないたことから、あらかじめ、空襲があったら小石川植物園を目指そうと申し合わせていたのではないかとのことでした)
家路に向かう道は死体だらけの焼け野原だった
そして、夜が明けて外に出ると、巣鴨まで一面焼け野原だったそうで、その道を、巣鴨の家を目指し、お父さんとお母さんと一緒に、トボトボと歩いて帰ったそうですが、その道すがらには、丸焦げになった死体がたくさん横たわっていたそうで、その光景は今でも忘れられず、
高木さんは、
自分の家が目の前で燃えて、そのときは「どうして」っていう呆然とした気持ちや、みじめさみたいなのを感じたな。怒りや悲しみは、あとからだった。
兄貴たちは兵隊に行っていて、12歳なりに「自分が家族と家を守らなきゃ」って気持ちもあったんだけどね。
悲しいとか悔しいとかじゃなくて、とにかくつらかったね。
と、語っています。
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