初舞台後は、「靭猿」「夏祭浪花鑑」「幡随院長兵衛」「盛綱陣屋」などの舞台に出演するほか、「かつお売り」では踊りの初舞台も踏むと、1949年9月、7歳の時には、東京劇場で上演された「ひらかな盛衰記・逆櫓」で遠見の樋口役を演じて、6代目市川染五郎を襲名するなど、着実にキャリアを積んでいた、2代目松本白鸚(にだいめ まつもと はくおう)さんですが、
学校では長年に渡ってイジメを受けていたほか、小学6年生の修学旅行では、舞台のため、一人だけ途中で帰らなければならないなど、役者の家に生まれたことを悲しく思ったこともあったといいます。

「松本白鸚(2代目)は7歳で市川染五郎(6代目)を襲名していた!」からの続き
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は常磐松小学校から暁星学園に編入していた
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、1949年、常磐松小学校に入学するのですが、小学3年生の時には、お父さんたちが通っていたフランス系のミッションスクール・暁星学園に編入したそうで、
祖父・7代目松本幸四郎さんの、役者として一人前になるには勉学もきちんとしなければならないという考えにより、熱心に勉強もしたそうです。
(そのため、家では、家庭教師もつけてもらったそうです)
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は小6の修学旅行では舞台のため途中で帰らなければならなかった
ただ、学校の授業が終わると、稽古場を回る毎日で、一緒に何かをする時間がなかったため、友達は少なかったうえ、小学6年生の時には、修学旅行で京都に行くも、舞台があったため、途中で、友達と別れて一人だけ超特急「つばめ」に乗って東京に帰ることになったそうで、
迎えに来てくれたばあやと二人でしょんぼりと駅のホームで汽車を待っていると、何で役者の家に生まれたのかと悲しくなったといいます。
(その修学旅行での記念写真に、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは写っていないそうです)
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は小中高一貫校でずっとイジメられていた
また、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は、舞台がある時は学校を早退していたそうですが、
翌日の朝礼の時に、落としたつもりだった白粉(おしろい)が耳の後ろに残っているのを、いじめっ子にめざとく見つけられ、
おまえ、何つけてんだよ
と、絡まれたりしていたそうで、
学校ではずっといじめられっ子だったそうです。
(小中高一貫校で、いじめっ子もずっと一緒だったため)言葉によるいじめは何年も続いたのだそうです。
2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)は学校でのイジメからの駆け込み寺として歌舞伎の稽古に没頭していた
そんな中、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは、すっかり、ひきこもりになってしまったそうですが、
やがて、歌舞伎の芸の稽古を駆け込み寺と考えるようになり、嫌な学校のことを感じている暇がなくなるほど、稽古や舞台に自分を追い込んだのだそうです。
(それでも、古屋善範さんと馬場秀雄さんという、真の友と呼べる親友も数少ないながらいたそうで、特に馬場さんは、歌舞伎の旅公演で、長期間、学校を離れていた時などは、授業内容をレポート用紙に書いて送ってくれたそうで、そのお陰で、2代目松本白鸚(6代目市川染五郎)さんは授業に遅れず、無事、高校を卒業することができたのだそうです)
「松本白鸚(2代目)は中学時代から映画やラジオドラマにも出演していた!」に続く
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子役として着実に歌舞伎のキャリアを積んでいた、2代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、中学時代には、ラジオドラマ、映画、文学座の舞台など、歌舞伎以外のお芝居もするようになったといいます。







