大阪府堺市で貨物船のスクリュープロペラ製造工場を広大な敷地内で経営するお父さんのもとに誕生した、六代目片岡愛之助(ろくだいめ かたおか あいのすけ)さんは、幼い頃は、何不自由なく育ったそうで、5歳の時、両親の勧めで松竹芸能の子役オーディションを受けると、合格し、現代劇の舞台で子役として活動するようになるのですが、松竹芸能の稽古場に出入りする歌舞伎役者を見るうち、歌舞伎に興味を持つようになったそうで、歌舞伎の稽古も始め、歌舞伎の舞台にも立つようになると、二代目片岡秀太郎さんにその才能を見出され、秀太郎さんに誘われる形で梨園(歌舞伎界入り)したといいます。

「片岡愛之助(6代目)の家系図は?実家は堺市の船のプロペラ製造工場!」からの続き

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5歳の時に松竹芸能の子役オーディションに合格

広大な敷地で貨物船のスクリュープロペラ製造工場を経営するお父さんのもとに誕生し、何不自由なく育つも、工場へのトラックやダンプカーの出入りが激しい敷地内で遊ぶことを心配した両親に家の中で遊ぶように言われ、幼い頃は、家の中で遊ぶことが多く、内向的な子どもだったという愛之助さんですが、

1977年、5歳の時には、「(愛之助さんを)部屋に閉じ込めておくのは可哀想」と思っていた両親が、たまたま、新聞で松竹芸能の子役募集の記事が掲載されているのを見て、「行かせたらどうやろう」ということになり、松竹芸能の子役オーディションを受けさせられると、見事、合格したそうです。

(両親が内向的だった愛之助さんを不憫(ふびん)に思い、友達づくりの一貫として松竹芸能の子役オーディションを受けさせたという話も)

現代劇の舞台で子役として活動しつつ歌舞伎の舞台にも立っていた

そんな愛之助さんは、実家から松竹芸能の稽古場へ通いながら、現代劇の舞台公演などに出演し、子役としてのキャリアを積むと、1979年、7歳の時には、NHK銀河テレビ小説「欲しがりません勝つまでは」でテレビドラマデビューも果たしているのですが、

愛之助さんが通っていた松竹芸能の稽古場には、歌舞伎関係者も多く出入りしていたことから、愛之助さんも歌舞伎に興味を抱くようになり、早くから、歌舞伎の稽古も始めたそうで、小学2年生の時には、大阪・中座で歌舞伎の舞台にも立つようになったそうです。

十三代目片岡仁左衛門に弟子入りし京都南座「勧進帳」で片岡千代丸を襲名

すると、1981年、9歳の時には、子役として歌舞伎の舞台に立つ愛之助さんの姿を見た二代目片岡秀太郎さんに歌舞伎界に入ることを誘われたそうで、

愛之助さんは、秀太郎さんの父親でもある十三代目片岡仁左衛門さんに弟子入りすると、同年、京都南座「勧進帳」で片岡千代丸を襲名し、実子と同じように楽屋で行儀や芸を学べる特別な弟子「部屋子(へやご)」として、歌舞伎を学び始めたのだそうです。


十三代目片岡仁左衛門さん。

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当初は勉強ができなくなることから歌舞伎を辞める予定だった

実は、歌舞伎の公演は1ヶ月続き、その間、休みがなくなり、勉強が全然できなくなることから、歌舞伎を辞めることになっていたそうですが、そんな中、秀太郎さんから歌舞伎界入りの話があり、実家の両親を交えて話し合った結果、歌舞伎界に入ることになったそうで、

愛之助さんは、

実家の父は好きで家を継いだわけではないので、僕には好きなことをさせてやりたかったようなんですね。そこで、秀太郎の薦めで、十三代目の片岡仁左衛門のところにあいさつに行きましたら、快く『じゃあ部屋子ということで、頑張りなさい』と言っていただいたんです。

十三代目の本名が『千代之助』だったので、『千代丸』という名前をいただきました

と、語っています。

「片岡愛之助(6代目)は19歳のとき片岡秀太郎(2代目)の養子になっていた!」に続く

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