1969年、20歳の時、ストリップ劇場の幕間コントで芸人デビューすると、以降、「アヘアヘアヘアヘ…」「ア~メマ!」「かい~の」などのギャグで関西を中心に絶大な人気を誇った、間寛平(はざま かんぺい)さんですが、
もともとは、高校卒業後に歌手を目指し上京するも、夢半ばで挫折して大阪に戻ると、様々な職を転々とする中、交通事故に遭い、ケガをして入院中に聴いていたラジオに吉本興業の芸人が多く出演していたことで、20歳の時にお笑い芸人に転身したといいます。
今回は、そんな間寛平さんの、生い立ち(誕生時から無職時代)をご紹介します。
間寛平のプロフィール
間寛平さんは、1949年7月20日生まれ、
高知県宿毛市の出身、
身長164センチ、
体重60キロ、
血液型はAB型、
学歴は、
宿毛市立楠山小学校出井分校
⇒大阪市立住吉川小学校(転校)
⇒大阪市立加賀屋中学校
⇒私立柏原高等学校(現・東大阪大学柏原高校)卒業
趣味は、マラソンです。
ちなみに、間寛平さんの本名は、「間重美(はざま しげみ)」で、愛称は、「寛平ちゃん」です。
間寛平は誕生する1ヶ月前に父親を亡くしていた
間寛平さんは、高知県と愛媛県の県境の山奥にある宿毛市に、お父さんの岡村時市さんとお母さんの美稲子さんのもと誕生するのですが、間寛平さんが誕生する1ヶ月前に、お父さんは結核により、23歳の若さで他界してしまったそうです。
ちなみに、間寛平さんのお父さんの家系である岡村家は、もともと庄屋として栄えていたのですが、明治時代に、一族の一人が放蕩(ほうとう)を重ねたことで土地を失い、時市さんが誕生した頃にはすでに集落の中で一番貧しくなっていたそうで、
時市さんは15歳の時、家計を助けるため、四万十市にあった営林署に就職するのですが、敗戦の色が濃くなると、佐世保の海軍の兵卒に志願。
ただ、そこで待っていたのは過酷なシゴキの日々で、時市さんは結核に倒れ、終戦を入院先の病院で迎えたのだそうです。
終戦後、結核から回復した時市さんは、自転車で衣料品の行商を始めると、青年団で知り合った美稲子さんと結婚するのですが、
美稲子さんが間寛平さんを身ごもった時、時市さんは結核が再発してしまい(当時、治療薬のペニシリンは高価だったことから)、
美稲子さんが、
この子供を堕ろそうか?にいさんが元気になったらまた子供ができるやない
と、言ったそうですが、
時市さんは、
俺絶対死なせん。産むんだ。この子は里子に出さず、しっかり育てて欲しい
と、言ったそうで、
美稲子さんは、涙を見せたらいけないと思い、「赤ちゃん動いてるよ」などと言って時市さんを励ましたそうですが、その甲斐なく、時市さんは、亡くなってしまったのだそうです。
(時市さんは、社交的で、歌が好きでうまく、目立ちたがり屋だったそうで、その性質は間寛平さんに受け継がれたのでした)
間寛平が4歳の時には母親が再婚
父・時市さんが亡くなった後、間寛平さんは、しばらくは、母・美稲子さんに育てられたそうですが、間寛平さんが4歳の時、母・美稲子さんは、近所の人から、「人柄の良い人だから」と、木材の切り出し(林業)をしていた間幸一さんを紹介されたそうで、
誠実で働き者で、何より、子供(間寛平さん)をかわいがってくれる間幸一さんに惹かれ、1954年、再婚したのだそうです。
(結婚する時、美稲子さんは、間幸一さんに「時市さんのことは忘れてほしい」と言われたそうで、以来、美稲子さんは、二度と時市さんのことは口にしなかったそうです)
間寛平は12歳の時に一家で大阪に転居していた
美稲子さんが間幸一さんと再婚後、間一家は宇和島に移り住み、新しい暮らしを始めたそうですが、やがて、木炭の需要減少で林業では食べていけなくなり、間寛平さんが12歳の時には、一家は、大阪市住之江区に引っ越ししたそうです。
ちなみに、間寛平さんによると、養父・間幸一さんは、本当の息子のようにかわいがって育ててくれたそうで、
二十歳までは好きなことをしろ
二十歳を過ぎたらきちっと決めて一本に打ち込め
と、教えられたのだそうです。
間寛平は12歳の時に亡き実父の存在を初めて知るも口に出さなかった
そんな中、間寛平さんは、12歳の時、亡き実父・時市さんの存在を初めて知ったそうですが、
(この頃まで間幸一さんを本当のお父さんだと信じて疑わなかったそうです)
養父・間幸一さんに申し訳なく思い、決して実父のことを口にしたり尋ねたりすることはしなかったそうです。
間寛平は高校卒業後は歌手を目指し上京するも挫折し大阪に戻っていた
間寛平さんは、中学生時代には、野球部に入部し、部活動に打ち込んでいたそうですが、やがて、ジャズに出会い、ジャズに熱中するようになると、1968年、高校卒業後は、歌手を目指して上京したそうですが、挫折。
その後、大阪に戻ると、5トントラックの運転手やタイル職人、会社員などさまざまな仕事を経験したそうです。
間寛平は19歳~20歳頃、交通事故で入院したのをきっかけにお笑い芸人になろうと思い立っていた
そんな中、間寛平さんは、白タクの仕事をしていた時、トラックに追突されて車ごと民家のトイレに突っ込むという交通事故に遭い、入院を余儀なくされてしまったそうですが、
入院中、ラジオをつけると、しょっちゅう、吉本興業の芸人が出演していたそうで、
それを聴くうちに、
(自分でも)こんなんやれたらええなあ
と、思うようになり、お笑い芸人になろうと思い立ったそうです。
間寛平は19歳~20歳頃に中学の同級生に漫才師の鳳啓助を紹介されていた
そこで、間寛平さんは、そのことを、お見舞いに来てくれた中学の同級生に話すと、勤務先の飲食店によく芸人が来るから紹介すると言ってくれたそうで、
この時、漫才師の鳳啓助(おおとり けいすけ)さんを紹介してもらったのだそうです。
漫才をする鳳啓助さんと京唄子さん。
間寛平は19歳~20歳頃、漫才師の鳳啓助に「すっとんトリオ」を紹介されていた
ただ、鳳啓助さんには、すでに弟子が数多くいたことを理由に断られたそうですが、当時、大阪で売れていた「すっとんトリオ」を紹介してくれたそうです。
間寛平は20歳の時にストリップ劇場の幕間コントでデビューしていた
そこで、間寛平さんは、「すっとんトリオ」のリーダーの松田武夫さんのもとを訪ねると、松田武夫さんに、やる気があるならと通天閣近くのストリップ劇場で修業するよう言われたそうで、
間寛平さんは、1969年10月10日、20歳の時、新世界のジャンジャン横丁にあった「温泉劇場」(ストリップ劇場)に行き、その日のうちに、幕間コントでデビューしたのだそうです。
「【画像】間寛平の若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1969年、20歳の時、ストリップ劇場の幕間コントで芸人デビューし、「アメマ」「かい~の」「ワシ、止まったら死ぬねん」などのギャグで、大阪で絶大な人気を博すと、東京進出後は、24時間テレビ「愛は地球を救う」の初代チャリテ …