1950年、4歳の時に、映画「獅子の罠」で子役デビューすると、「天才子役」として絶大な人気を博し、その後は、ミュージカル、司会、海外レポーターなど、活動の場を広げた、松島トモ子(まつしま ともこ)さん。

今回は、そんな松島トモ子さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

松島トモ子

「【画像】松島トモ子の生い立ちは?子役デビューからの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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松島トモ子は19歳の時にアメリカ・ニューヨークに留学していた

子役として絶大な人気を博し、順調満帆な芸能生活を送っていた松島トモ子さんですが、人気絶頂だった19歳の時、思い切って、アメリカのニューヨークにあるザ・マスターズ・ハイスクールに、2年間、留学したそうです。

そして、卒業後は、マーサー・グラハム(モダン・ダンス)に入門して、奨学金をもらい、研修を受けたそうです。

松島トモ子
ニューヨーク留学当時の松島トモ子さん。

というのも、これまで、ずっと、仕事と勉強の毎日だったため、このまま、家、仕事場、学校だけの人生でいいのだろうか、このまま日本にいる限り、仕事が来たらやってしまうだろう、と思い、

だったら一度、仕事を離れてアメリカに行こう!

と、決めたのだそうです。

ちなみに、ニューヨークでは、寄宿舎生活を送っていたそうですが、初めて独り立ちしたことで、自分では何もできないこと、自分が今までいかにおかしな生活を送ってきたのかを思い知らされたそうです。

(松島トモ子さんは、雨が降ってきてもどうしたらいいのか分からなかったほか(以前は、雨が降ると誰かが傘を差してくれたそうです)、ボタンが取れても付け方が分からず、ホチキスで止めて、みんなに笑われたそうです)

松島トモ子は21歳の時に英語の司会やリポーターとして活動していた

こうして、2年間の留学を終えて帰国した松島トモ子さんは、ミュージカルや、語学力を生かした英語での司会やインタビュー、海外レポーターなどを務めるなど、活動の場を広げたそうで、

松島トモ子さんは、

今はコーディネーターさんや通訳さんがつきますが、当時はコーディネーターも通訳もすべて私ひとりでやっていて、入国の書類を通したりするのも得意でした。

日本ではダラダラしているくせに、英語になると人格が変わったかのようにシャッキリするんです(笑)。父も祖父も商社マンでしたから、どこかでそうした血を引いているのかもしれませんね

と、語っています。

松島トモ子は41歳の時にライオンに襲われるほかヒョウにも襲われていた

そんな中、松島トモ子さんは、1986年1月、41歳の時には、テレビ番組「TIME21」の収録で訪れたケニアのナイロビで、なんと、ライオンに襲われる事故に遭うと、さらにはヒョウに襲われる事故にも遭っているのですが、2度とも無事復帰しています。

特に、2度目のヒョウに襲われた際には、第四頚椎粉砕骨折という重傷を負ったそうで、ヒョウの噛む位置があと1ミリずれていたら間違いなく死んでいただろうとされた中、松島トモ子さんは、奇跡的に後遺症もなく復帰しており、松島トモ子さんの症例はニューヨークの学会でも発表されたといいます。

(第四頚椎粉砕骨折をした場合、高い確率で死亡するか、もし死ななくても、首から下が動かなくなる程の後遺症が残る場合がほとんどだそうです)

松島トモ子

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松島トモ子の50代~現在(70代)

その後、松島トモ子さんは、1998年、53歳の時には、障害者の方から一通の手紙を受け取ったことがきっかけで、「車イスダンス」の競技に参加すると、

「第一回車イスダンス世界選手権’98」「I・P・C 公認ジャパン・オープン・ライジングスター」「第一車イスダンスアジア太平洋界選手権大会」「第一回全日本車イスダンススポーツ選手権大会」などで優勝しています。

また、松島トモ子さんは、講演会も積極的に行っており、長きに渡る芸能生活を振り返り、多くの人々と出会った感動と生きる喜びについてや、シベリアに抑留されて亡くなったお父さんのこと、戦争や家族について語っています。

ちなみに、松島トモ子さんは、70代の時には、子役の頃から、芸能界を二人三脚で歩んできた最愛のお母さんが認知症を発症したそうですが、

お母さんを施設に入所させるのではなく、仕事をしながらの在宅介護を選択すると、5年以上に渡る壮絶な介護の末、2021年にお母さんを看取ったそうで、

お母さんが他界された後は、自身の介護体験を講演会などで語っているそうです。

松島トモ子

「松島トモ子はなぜライオンとヒョウに襲われた?重症を負うも後遺症なく復帰していた!」に続く

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