「for you・・・」「桃色吐息」「はがゆい唇」「遥かな人へ」「ごめんね・・・」などの曲で有名な、髙橋真梨子(たかはし まりこ)さん。
そんな髙橋真梨子さんは、3歳の時に父親が原爆の後遺症による壊死で両足切断となり、母親が父親の代わりにスナックで働くなか不倫し、5歳の時には両親が離婚したそうで、
その後、お母さんに育てられるも、不倫をしていたお母さんはほとんど家におらず、いつも一人ぼっちで寂しい思いをしていたそうで、そんな孤独の中、音楽が心の支えだったといいます。
今回は、髙橋真梨子さんの生い立ち(幼少期から高1で上京まで)をご紹介します。
髙橋真梨子のプロフィール
髙橋真梨子さんは、1949年3月6日生まれ、
広島県廿日市市の出身、
身長155センチ、
血液型はA型、
学歴は、
福岡市立大楠小学校
⇒九州女子中学校
⇒九州女子高等学校
⇒(編入)駒沢学園女子高等学校卒業
ちなみに、「髙橋真梨子」は本名で、結婚後は「広瀬まり子」(ひろせ まりこ)となっています。
髙橋真梨子は1歳になる直前に父親の仕事の関係で広島から博多に移り住んでいた
髙橋真梨子さんは、ジャズ・クラリネット奏者の森岡月夫さんとダンサーの髙橋千鶴子さんのもと、一人っ子として広島で誕生したそうですが、
やがて、お父さんが、仕事の為、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んであった福岡の博多に移り住んだことから、その後、髙橋真梨子さんも、1歳になる直前に、お母さんに連れられて博多に転居したそうです。
髙橋真梨子が3歳の時には父親が原爆の後遺症による壊死で両足を切断していた
そんな中、お父さんは、博多でジャズバンド「九州ナイト」のクラリネット奏者として活動していたそうですが・・・
髙橋真梨子さんが3歳の時、お父さんは、(原爆の後遺症で)足の指先から末端の血管に血液が流れなくなり、腐っていく脱疽(だっそ)という症状が出始め、両足切断を余儀なくされたそうで、
髙橋真梨子さんは、
苦しんでいる父、痛がっている父・・・激しい痛みで、新聞紙を顔にのせて泣いていた父の姿を覚えている
と、語っています。
(お父さんは、ジャズ・クラリネット奏者になる前、広島鉄道局に勤務していたそうですが、1945年8月6日、原子爆弾の投下により被爆したそうです。また、当時、銀行に勤めていたというお母さんも、お父さんとは別の場所で、原子爆弾の投下により被爆していたそうです)
髙橋真梨子の母親は父親が闘病中に不倫し5歳の時に両親が離婚していた
そして、お母さんが、お父さんの代わりに家計を支えるため、中洲でスナック「森岡」を経営し、ホステスとして働くようになったそうですが・・・
お母さんが稼いだお金は、お父さんの高額な痛み止め(モルヒネ)や治療費に消えたことから、夫婦ゲンカが絶えなくなったそうで、ついに、両親は、髙橋真梨子さんが5歳の時に離婚してしまったのだそうです。
ちなみに、髙橋真梨子さんの親権は裁判で争われたそうですが、両足を失ったお父さんは、娘を引き取ることができず、昔の仲間がいる広島に戻り、髙橋真梨子さんとお母さんは博多に残ったのだそうです。
(お父さんは、これ以上お母さんと娘に迷惑はかけられないと1人で広島に戻り、その後、離婚することになったという話も)
ただ、お母さんは、お父さんが病気で苦しんでいる時から、ずっと、妻子ある男性と不倫していたそうで、髙橋真梨子さんは、そんなお母さんが許せず、長い間、恨み続けていたそうです。
髙橋真梨子は中学生の時に「ザ・ピーナッツ」に憧れ歌手を志すようになっていた
こうして、お母さんに育てられることになった髙橋真梨子さんですが、お母さんは、相変わらず、妻子ある男性との不倫を続けていたことから、髙橋真梨子さんは、いつも一人ぼっちで寂しい思いをしていたそうで、
お父さんっ子だった髙橋真梨子さんは、学校が休みになると、お父さんに会いに広島に行ったのだそうです。
そんな孤独の中、髙橋真梨子さんのもう一つの心の支えになっていたのが音楽だったそうで、当時、「ザ・ピーナッツ」の「恋のバカンス」が大流行していたこともあり、髙橋真梨子さんは、「ザ・ピーナッツ」に憧れ、中学生の時に、歌手を志すようになったそうで、
お父さんに会いに広島に行った際、
歌手になりたい
と、打ち明けると、
お父さんは、賛成してくれたそうですが、
ポップスとかアイドル的な歌手は、僕は望まない。歌うなら、難しい曲・・・スタンダードジャズとか、名曲みたいなものから始めた方がいい
と、アドリブで歌ったりせず、ドリス・デイやペギー・リーのように、きれいな発音で普通に歌うスタンダードジャズを目指すようアドバイスをされたのだそうです。
髙橋真梨子は渡辺プロダクションにスカウトされて高校1年生の時に歌手を目指し上京していた
こうして、髙橋真梨子さんは、14歳の時、お父さんのバンドにいたピアノ奏者を先生として、ジャズヴォーカルの勉強を始め、中学時代から学校には内緒で中洲のナイトクラブで歌い始めると、
1965年、高校1年生(16歳)の時には、渡辺プロダクションの九州支社・深見プロの目に留まってスカウトされ、上京して渡辺プロダクションと正式に契約したそうで、本格的なレッスンを受けるようになったのだそうです。
(お父さんには上京することを反対されていたそうですが、髙橋真梨子さんが16歳の時、お父さんが37歳という若さで他界されたそうで、周囲の人たちから上京するよう勧められたのだそうです)
「【画像】髙橋真梨子の若い頃は?デビューから現在までの代表曲やヒット曲を時系列まとめ!」に続く
1973年、24歳の時、「ペドロ&カプリシャス」のヴォーカルとして「ジョニィへの伝言」でレコードデビューすると、たちまちヒットを記録し、その後も、「五番街のマリーへ」「陽かげりの街」などを次々とヒットさせ、1978年、2 …