1972年、23歳の時、シンガーソングライターとして、シングル「僕の隣の孤独/午前5時の出来事」とアルバム「BRUGES~ブルージェ」でレコードデビューするも、全く売れなかったという、林哲司(はやし てつじ)さんですが、

作曲家として他のアーティストに楽曲を提供するようになると、ヒット曲を連発しました。

今回は、林哲司さんの若い頃から現在までの、提供した代表曲やヒット曲、自身のアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。

林哲司

「林哲司の生い立ちは?高1の時に加山雄三に憧れて作曲を始めていた!」からの続き

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林哲司は22歳の時にシンガーソングライターとしてシングル「僕の隣の孤独 / 午前5時の出来事」とアルバム「BRUGES~ブルージェ」でレコードデビュー

林哲司さんは、1972年、23歳の時に、ヤマハ主催の「第3回世界歌謡祭チリ大会」に自作曲「それが恋の終りなら」を応募すると、見事、入賞したそうで、

このことがきっかけとなり、1973年3月には、シングル「僕の隣の孤独/午前5時の出来事」、4月には、アルバム「BRUGES~ブルージェ」をリリースし、シンガーソングライターとしてレコードデビューしたそうです。

林哲司はシンガーソングライターとしては売れなかったもののアレンジの仕事を依頼されるようになっていた

ただ、売り上げはぱっとせず、デビュー1年もしないうちに厳しい現実に直面したそうで、

実は、林哲司さんは、デビュー前、

レコードさえ出せればヒットするだろう

と、(林哲司さんいわく)図々しくも思っていたそうで、かなり、落ち込んだそうです。

林哲司は26歳の時にイギリスのバンド「Jigsaw」への提供曲「If I Have To Go Away」が全英・全米でチャートインしていた

それでも、林哲司さんのアルバムを聴いた音楽出版社やレコード会社のプロデューサーが、林哲司さんのメロディセンスに注目し、アレンジの仕事を依頼してくれるようになったそうで、

作曲やアレンジの仕事に追われる中、1975年、26歳の時には、「PMP」(現・フジパシフィックミュージック)の朝妻一郎さんと笹島斌さんが林哲司さんに興味を持ち、林哲司さんが作ったデモテープをフランスのカンヌで行われた音楽見本市(MIDEM)に持ち込むと、

そのデモテープの中にあった大橋純子さんが歌った「If I Have To Go Away」というバラードに英国のバンド「Jigsaw」(ジグソー)のプロデューサーが興味を示したそうで、

当初は、「Jigsaw」のアルバム曲として収録する予定でレコーディングされたそうですが、その完成度の高さから、シングルに決定したそうで、

それから1年後の1977年リリースされると、なんと、全英・全米共にチャートインを収める大ヒットを記録したのだそうです。

「If I Have To Go Away」

ただ、日本ではほとんど反応がなかったそうで、

林哲司さんは、自分は世界でも通用すると確信し、アメリカに残る選択肢も考えたそうですが、日本でのヒットがないことに一抹の寂しさを感じ、日本でもっともっと自分のメロディを歌ってもらえるように、ヒットを出したいと思ったそうで、

林哲司さんは、

海外の有名なバンドのシングル曲を書いたというのに、日本のマスコミはあまり取り上げてくれませんでした。一般的には何の話題にもならなかったですね。なんでなんだろうと思いました。

でも、ふと足元を見たら、僕はまだまだ無名の作曲家。日本でのヒット曲がなかったんです

と、語っています。

(ただ、英米のヒットチャートでランクされたことは、大きな自信になったそうです)

林哲司は33歳の時に上田正樹に提供した「悲しい色やね」がロングランヒット

そんな林哲司さんは、1970年代後半から、作曲家・編曲家として、日本のアーティストに数多くの楽曲を提供し始めると、

1982年10月に発売された上田正樹さんへの提供曲「悲しい色やね」(シングル)が、発売から半年ほど経った頃に、関西で人気に火がつき、徐々に順位を上げていったそうで、

1年かけてベスト10入りし、以降、ロングランヒットとなったのでした。

「悲しい色やね」
「悲しい色やね」

林哲司は中森明菜、菊池桃子、杉山清貴&オメガトライブほかに提供した曲も次々とヒットさせていた

すると、その後も、林哲司さんは、

  • 1983年11月5日には、杏里さんの「悲しみがとまらない」
    「悲しみがとまらない」
    「悲しみがとまらない」
  • 1984年11月1日には、中森明菜さんの「北ウイング」「北ウイング」
    「北ウイング」
  • 1984年4月25日には、原田知世さんの「愛情物語」
    「愛情物語」
    「愛情物語」
  • 1984年10月10日には、原田知世さんの「天国にいちばん近い島」
    「天国にいちばん近い島」
    「天国にいちばん近い島」
  • 1985年2月27日には、菊池桃子さんの「卒業-GRADUATION-」
    「卒業-GRADUATION-」
    「卒業-GRADUATION-」
  • 1985年3月6日には、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語 -Never Ending Summer-」
    「ふたりの夏物語」
    「ふたりの夏物語 -Never Ending Summer-」
  • 1985年6月12日には、河合奈保子さんの「デビュー~Fly Me To Love」
    「デビュー~Fly Me To Love」
    「デビュー~Fly Me To Love」
  • 1987年4月22日には、稲垣潤一さんの「思い出のビーチクラブ」
    「思い出のビーチクラブ」
    「思い出のビーチクラブ」

など、数多くのアーティストに楽曲を提供すると、

その洗練されたメロディとサウンドで次々とヒットを連発。

林哲司さんは、

思い出深い仕事は、杉山清貴&オメガトライブや菊池桃子の作品です。特に、菊池桃子は、“ラ・ムー”というユニットを結成するまで全シングル、アルバムに関わりましたからね。

それまで、アイドルの曲は単調なものが多くて、あまり好きになれなかったんです。アイドルの場合、歌唱力への配慮から音域の幅がすごく狭かったり、踊りの振付用にやたらブレイクが入ったものが多かったんですよ。

だから、プロデューサーと話をして、菊池桃子の場合はオメガトライブと同じように、メロディがしっかりした作品を作ることを決めました。アルバムや曲のコンセプトに合うように、レコードのジャケットも本人のアップ写真ではなく、海の上で横たわっているようなデザインだったと思います。

単に曲を提供するだけではなく、新しいアイドルのスタイルを作ることができた仕事でしたね。

と、語っています。

林哲司の主な作曲作品(自身のアルバム)

それでは、最後に、林哲司さんの作曲作品をご紹介しましょう。

自身のアルバムでは、

林哲司の主な作曲作品(映画)

映画では、

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林哲司の主な作曲作品(テレビドラマ)

テレビドラマでは、

ほか、多数手がけています。

「林哲司のシティポップ「真夜中のドア」は世界中でブームを巻き起こしていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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