1970年4月5日、22歳の時、「The off Course(ジ・オフコース)」として、シングル「群衆の中で」でデビューするも、1971年には、「The off Course(ジ・オフコース)」を脱退し、音楽活動自体をやめて、建築の道に進むことを決意したという、地主道夫(じぬし みちお)さん。
今回は、地主道夫さんの若い頃(「The off Course(ジ・オフコース)」脱退後)から現在までの経歴を時系列でご紹介します。
「地主道夫はオフコース(小田和正,鈴木康博)に大学途中まで在籍していた!」からの続き
地主道夫は25歳の時に竹中工務店に入社していた
1970年4月に、「The off Course(ジ・オフコース)」として、シングル「群衆の中で」でデビューを果たすも、1971年には、「The off Course(ジ・オフコース)」から脱退した地主道夫さんですが、
もともと、建築家になりたかったそうで、東北大学工学部金属加工学科を卒業後、早稲田大学理工学部建築学科の3年に学士入学し、建築を学び始めていたそうで、
早稲田大学理工学部建築学科卒業後の1973年、25歳の時には、設計で最も評判が高かった竹中工務店に入社したそうです。
地主道夫は28歳の時に1級建築士の資格を取得していた
ちなみに、竹中工務店での同期は250人で、その同期のうち、院卒が3分の2を占めていたそうですが、
地主道夫さんは、東北大学卒業後、早稲田大学に学士入学(編入)していたことから、他の学生よりも年上で、腹が座っていたそうで、
そのせいか、職場では、上司からイジメに遭ったそうですが、それに屈することなく、上司の言うことは聞かなかったそうで、1976年、28歳の時には、1級建築士の資格を取り、仕事に邁進したそうです。
地主道夫は42歳の時に竹中工務店で設計課長となっていた
そんな地主道夫さんは、1985年頃から、設計コンペ(設計競技)に受かり始めると、1990年、42歳の時には、設計課長となったそうですが、この頃、コンペ勝率が5割を超える記録を打ち立てたそうで、
地主道夫さんは、
5,6人のチームで集中して案を集める。決めたらすぐ設計をまとめクライアントへの提出をとにかく早くする。他社が締め切りギリギリなのに、期日前に出すこともあった
と、語っています。
(設計コンペとは、建築物の設計を行う際に、複数の建築家や設計事務所から設計案を募り、その中から優秀な作品を選び、その設計者に設計を委託する方式のことを言うそうです)
地主道夫は竹中工務店を退職して「株式会社地主道夫設計事務所」を設立し現在も営業中
また、地主道夫さんは、2004年、56歳の時には、竹中工務店営業本部専門役に就任したそうですが、
その後、65歳の定年を待たずに、自ら退職し、東京の新橋駅前に個人事務所「株式会社地主道夫設計事務所」を設立して、商業施設や学校など様々な建築設計を手掛けているそうで、
地主道夫さんは、
この先90歳までは自営を続ける
と、熱く語っています。
(注文は口コミで集まるそうです)
ちなみに、地主道夫さんは、母校・聖光学院の校舎建て替え工事の設計と監修も担当したそうで、完成まで7年かかったそうですが、
完成時には、そのホールで、3日間に渡り、盟友・小田和正さんのコンサートが行われたそうで、
地主道夫さんは、小田和正さんについて、
小田は自分の誇りです。いないと困る貴重な存在です。音楽と建築って、似てるんですよ
と、語っています。
(地主道夫さんと小田和正さんは聖光学院の同級生で、鈴木康博さん、須藤尊史さんと共に音楽活動をしていました)
地主道夫の主な建築作品と実績
それでは最後に、地主道夫さんの主な建築作品と実績についてご紹介しましょう。
- 「メゾンエルメス(銀座)」※施工は竹中工務店
- 「プラダブティック(青山)」※施工は竹中工務店
- 「松島病院 大腸肛門病センター」※基本計画・監修を担当
- 「熱海望洋館」※四季倶楽部の熱海リゾート施設の設計
ほか、数多くの設計を手掛けているそうで、
2005年には、日本建築学会賞を受賞しています。
大学時代、小田和正さん、鈴木康博さんと共に、「The off Course(ジ・オフコース)」として活動し、ヤマハのコンテストにも出場したという、地主道夫(じぬし みちお)さんですが、 実は、地主道夫さんは、小田和正さん …