1953年、19歳の時、モダンジャズピアニスト・秋吉敏子さんに見出されて、「コージー・カルテット」に加入すると、その後、アメリカ留学を経てボサノヴァと出会い、帰国後、アルバム「ジャズ&ボッサ」で日本にボサノヴァ・ブームを巻き起こした、渡辺貞夫(わたなべ さだお)さん。

そんな渡辺貞夫さんは、その後も、アフリカ音楽やフュージョンなど、ジャズの枠を超えた独自の音楽性を追求し続けており、90歳を超えた現在も、現役で全国ツアーを行っているのですが、

今回は、渡辺貞夫さんの若い頃(「コージー・カルテット」加入以降)から現在までの活動やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。

渡辺貞夫

「渡辺貞夫の若い頃は?クラリネットからサックスに転向していた!」からの続き

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渡辺貞夫は19歳の時に秋吉敏子に誘われて「コージー・カルテット」に加入していた

渡辺貞夫さんは、1952年、19歳の時、これから自分のグループを作るからと、ピアニストの秋吉敏子さんに声をかけられたそうで、1953年、秋吉敏子さん率いる「コージー・カルテット」に加入したそうですが、

秋吉敏子さんといえば、当時から日本を代表するモダンジャズのピアニストで、渡辺貞夫さんたちにとっては、雲の上の存在だったことから、

そんな秋吉敏子さんのグループに入れるということは、

もしかすると音楽で生計を立てられるかもしれない

と、思ったといいます。

(ただ、後年、渡辺貞夫さんは、秋吉敏子さんとの出会いがなかったとしても、音楽への情熱は変わらず、いくら生活が苦しくても、故郷に戻ることなく、音楽を続けていただろうと語っています)

渡辺貞夫は22歳の時に「コージー・カルテット」のバンドリーダーになっていた

さておき、「コージー・カルテット」に加入した渡辺貞夫さんは、様々なことに刺激を受けて、充実した毎日を送り、

(特に、練習量の多さに影響を受けたそうです)

1956年、22歳の時には、秋吉敏子さんがバークリー音楽院に留学したことで、秋吉敏子さんの跡を継ぎ、「コージー・カルテット」のバンドリーダーとなったそうですが、

やがて、米軍が撤収して、一気に仕事がなくなり、1958年には、「コージー・カルテット」は解散したのだそうです。

(秋吉敏子さんが渡米する寸前は、特にひどかったそうで、ギャラは、一晩、100円、300円ということもあったそうです)

渡辺貞夫は25歳の時に「ジョージ川口ビッグ4」ほか様々なバンドで活動していた

ただ、その後、1958年には、「ビッグ4」のジョージ川口さんが声をかけてくれ、「ジョージ川口ビッグ4」に加入したそうで、その後も、様々なバンドで活動したのだそうです。

渡辺貞夫は28歳の時には初のリーダーアルバム「渡辺貞夫」をリリース

そして、1961年、28歳の時には、初のリーダーアルバム「渡辺貞夫」をリリースしています。

SADAO WATANABE
「渡辺貞夫」

渡辺貞夫は29歳の時に「バークリー音楽院」に留学していた

また、渡辺貞夫さんは、1962年、29歳の時には、帰国した秋吉敏子さんに、

ひとりだけバークリーの奨学金をもらえる枠があるからどうですか

と、声をかけられたそうで、

二つ返事で快諾すると、秋吉敏子さんの推薦でフルスカラシップをもらい、アメリカ合衆国・マサチューセッツ州ボストン市にある名門音楽学校「バークリー音楽院」に留学したそうで、

在学中には、チコ・ハミルトンさん、ゲイリー・マクファーランドさん、ガボール・ザボさんらと共演したそうです。

渡辺貞夫は32歳の時にボサノヴァを初めて聴き魅了されていた

そして、1965年には、ゲイリー・マクファーランドさんのバンドの一員として、西海岸を10週間に渡るツアーに参加すると、

サンフランシスコで演奏していたクラブの真向かいの会場で、セルジオ・メンデスさん率いるグループが「ブラジル65」の名義で公演を行っていたことから、演奏の合間に双方が相手の会場を訪れ合っていたそうですが、

渡辺貞夫さんは、そこで、初めて本格的なブラジル音楽を聴き、この時、初めて、ボサノヴァというジャンルの音楽を知り、魅了されたそうで、一気にジャズに対する視野が広がったのだそうです。

(これまで、渡辺貞夫さんは、ビバップ(1940年代にアメリカで始まったモダン・ジャズの音楽スタイル)を一途に演奏してきたそうです)

渡辺貞夫は33歳の時にアルバム「ジャズ&ボッサ」で日本にボサノヴァブームを巻き起こしていた

そんな渡辺貞夫さんは、1965年に帰国後は、数多くのミュージシャンと共演したそうですが、ブラジル音楽などにも触れたことにより、ジャズにこだわらない、独自の音楽性を打ち出すようになったそうで、

1966年にリリースしたアルバム「ジャズ&ボッサ」は、たちまち、日本にボサノヴァ・ブームを巻き起こしたのでした。

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渡辺貞夫は36歳の時にアルバム「PASTORAL」をリリース

そして、1969年にリリースしたアルバム「PASTORAL」では、さらに、ボサノヴァからエレクトリック音楽への転換を図ると、

1970年代前半には、アフリカを訪れた際、アフリカ音楽を聴いて感銘を受け、1972年、アフリカ音楽をジャズに取り入れた作品「SADAO WATANABE」をリリースしています。

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渡辺貞夫は45歳の時に「California Shower(カリフォルニア・シャワー)」が大ヒット

また、1970年代後半からは、フュージョン的なサウンドにも取り組み、海外にも進出すると、1978年にリリースした、フュージョン・アルバム「California Shower(カリフォルニア・シャワー)」が大ヒットを記録しています。

渡辺貞夫は50歳の時に「フィル・アップ・ザ・ナイト」が大ヒット

さらに、渡辺貞夫さんは、1983年にリリースした「フィル・アップ・ザ・ナイト」が、「ラジオ&レコード」誌のジャズ・チャートで1位を獲得すると、

続く、1984年にリリースした「ランデブー」は、ビルボードジャズチャート2位を記録する大ヒットとなり、本格的な世界進出を果たしたのでした。

渡辺貞夫の現在は?

そんな渡辺貞夫さんは、その後も、日本のみならず世界の音楽シーンで精力的に活動しており、

1995年(渡辺貞夫さん62歳)からは、子供たちへのリズム教育を始め、世界の子供たちに音楽の楽しさを伝える活動をしているほか、

2005年(渡辺貞夫さん72歳)には、愛知万博において、政府出展事業の総合監督を務めるなど、音楽を通じて世界の子供たちとの交流を実現させるなど、次世代の育成も熱心に取り組んでいます。

そして、90歳を超えた2025年現在も、日本を代表するサクソフォン奏者として現役で活動し、「渡辺貞夫カルテット2025」として全国ツアーを行っており、

小野塚晃さん(ピアノ)、三嶋大輝さん(ベース)、竹村一哲さん(ドラムス)と共に、精力的にライブ活動を続けています。

渡辺貞夫

渡辺貞夫のアルバム一覧

それでは、最後に、渡辺貞夫さんのアルバムをご紹介しましょう。

と、1961年のデビューアルバム「渡辺貞夫」から、2025年の最新作「HOPE FOR TOMORROW」まで、86作品にも及ぶアルバムをリリースしています。

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渡辺貞夫の受章一覧

そんな渡辺貞夫さんは、

  • 1995年には、紫綬褒章
  • 2005年には、旭日小綬

と、褒章も受章しています。

「渡辺貞夫の兄は殺人事件の被害者だった!弟は渡辺文男!妹はチコ本田!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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