高校卒業後の18歳の時、上京し、クラリネット奏者として銀座のダンスホールやクラブで演奏活動を開始すると、その後、クラリネット奏者からサクソフォン奏者に転向したという、渡辺貞夫(わたなべ さだお)さん。
今回は、渡辺貞夫さんの、若い頃(上京してクラリネット奏者からサクソフォン奏者に転向するまで)の活動を時系列でご紹介します。

「渡辺貞夫の生い立ちは?「ブルースの誕生」を観てクラリネットを始めていた!」からの続き
渡辺貞夫は宇都宮のダンスホールでクラリネットの演奏活動を始めるもステージでは楽器を持って立っているだけで良かった
アメリカ映画「ブルースの誕生」に魅せられ、お父さんにお願いしてクラリネットを買ってもらったという渡辺貞夫さんは、ほぼ自己流で演奏できるようになり、約3ヶ月後には、週末、宇都宮のダンスホールで演奏活動を開始したそうですが、
実は、楽器がない時代だったため、楽器さえ持っていれば見栄えがいいと、とにかく楽器を持ってステージに上っているだけで良かったといいます。
それでも、渡辺貞夫さんは、クラリネットが吹きたかったことから、教わった”ラ・クンパルシータ”(タンゴを代表する古典曲)を吹くと・・・
あの坊やが吹くと踊りづらいからやめさせてくれ
と、言われてしまったといいます。
渡辺貞夫は16歳の時に進駐軍の施設で演奏するも下手すぎてランク付けされなかった
そんな中、その後、進駐軍の仕事(週末毎に鬼怒川温泉ホテルで演奏)が入ってきたそうで、
進駐軍の施設に出入りするためには、ライセンスカードが必要で、ミュージシャンはA~Dでランク付けされていたそうですが、
(スペシャルAだと一晩に2500円(当時としては破格)のギャラがもらえたそうです)
渡辺貞夫さんは、あまりにも下手すぎて採点されず、Dの下に、特別枠としてEを作ってもらっていたそうで、週末ごとに一晩で300円稼いだのだそうです。
(渡辺貞夫さんは、この時、16歳だったところ、18歳と年齢を偽っていたそうです)
渡辺貞夫は16歳の時にクラリネットからサクソフォンに転向していた
また、渡辺貞夫さんは、月に1回ほど、読売ホールで開催されていたジャズコンサートを観るために上京し、
コンサート終了後は、従兄弟がボーイをやっていたという、新橋の「フロリダ」というダンスホールに行き、隅の方で、ブルーコーツ(日本最古のビッグバンド)などを聴かせてもらっていたそうですが、
観ているうちに、サクソフォン・セクションがやけにかっこよく感じ、サックスの音に憧れるようになったそうで、
またもや、クラリネットの時と同様に、お父さんにしつこくおねだりし、神田でタナベのサクソフォンを2万4000円で買ってもらったのだそうです。
(当時は、朝鮮特需の影響から、古い電線を1キロ300円ぐらいで廃品回収業者が買ってくれたそうで、毎日、古い電線をかき集めて元手を作り、足りない分をお父さんに出してもらったのだそうです)
渡辺貞夫は高校卒業後に上京し演奏活動をするもプロになれるとは思っていなかった
そんな渡辺貞夫さんは、1951年、高校を卒業した2週間後、ツテを頼って上京し、銀座・松坂屋の地下にあったダンスホール「オアシス」や、銀座のクラブなどで演奏活動を始めたそうですが、
(上京後しばらくは、クラリネットの仕事が多く、渡辺貞夫さんは、クラリネットを演奏していたそうです)
実は、渡辺貞夫さんは、基礎的な音楽教育を受けていなかったことから、音楽を職業にできるとは思っておらず、純粋に音楽が好きで、演奏していたそうで、
(演奏できる楽曲もわずかだったそうです)
お父さんには、
20歳までは好きなことをさせてくれ
と、お願いしていたのだそうです。
渡辺貞夫は18歳の時にサックス奏者としてオクテット(八重奏団)に加入していた
そんな中、渡辺貞夫さんは、米軍キャンプで仕事をするようになり、下宿していた世田谷の三宿から歩いて通っていたそうですが、
その途中の渋谷の道玄坂に、「フォリナス」という進駐軍に接収されていたクラブがあり、そこでは、松本英彦さんたちがジャムセッションを毎晩やっていたそうで、渡辺貞夫さんは、それを窓際で聴き、歌いながら三宿まで帰るというのが日課となっていたそうですが、
ある日のこと、松本英彦さんたちが、たまたま知っている曲を演奏していたことから、我慢できなくなり、クラリネットをつなげてステージに飛び入り参加すると、
ミュージシャンの一人から、
これからオクテット(八重奏団)を作るから、もしサクソフォンができるなら入らないか
と、誘われたそうで、
渡辺貞夫さんは、この申し出を快諾し、この時から、正式にサクソフォンに転向したのだそうです。
渡辺貞夫は18歳の時にサクソフォンを猛練習していた
こうして、サクソフォンに転向した渡辺貞夫さんですが、譜面もろくに読めなかったにもかかわらず、なぜか、ファーストアルトを任されたそうで、
(ファーストアルトとは、アルトサックスのパートの中で、他の楽器とのバランスを考え、最も中心的な役割を担うとされています)
案の定、メンバーから、
あの坊やはダメだな
と、陰口を言われたことから、
渡辺貞夫さんは、
2週間待ってください
と、願い出て、自宅でひたすら練習に打ち込み、なんとか演奏できるようになったそうで、
やがて、バンドに、箱根にある富士屋ホテル専属の仕事の話が舞い込むと、約1年間、住み込みで演奏する生活を送るようになったのだそうです。
渡辺貞夫は18歳の時に「ジャフロ」を結成していた
そして、箱根・富士屋ホテルでの仕事が終わり、東京に戻ると、
渡辺貞夫さんは、ジャズとアフロを融合させた「ジャフロ」というグループを結成し、リズム&ブルースを演奏したのだそうです。
「【画像】渡辺貞夫の若い頃は?カリフォルニアシャワーほか現在までのアルバムや経歴は?」に続く
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1953年、19歳の時、モダンジャズピアニスト・秋吉敏子さんに見出されて、「コージー・カルテット」に加入すると、その後、アメリカ留学を経てボサノヴァと出会い、帰国後、アルバム「ジャズ&ボッサ」で日本にボサノヴァ …





