1954年、ファースト・アルバム「アメイジング・トシコ・アキヨシ」でアメリカデビューを果たすと、1956年には、バークリー音楽院に日本人初の奨学生として留学し、以降、日本のみならず、世界のジャズシーンを牽引している、秋吉敏子(あきよし としこ)さん。
今回は、そんな秋吉敏子さんの、若い頃(デビュー以降)から現在までのアルバムや経歴を時系列でご紹介します。

「秋吉敏子の生い立ちは?幼少期からピアノ!16歳でジャズピアニスト!」からの続き
秋吉敏子は25歳の時にアルバム「アメイジング・トシコ・アキヨシ」でアメリカデビューしていた
1953年(秋吉敏子さん24歳)、日本でライブイベント「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」が開催され、超一流のミュージシャンの一団がアメリカから来日したそうですが、
その中の一人である、人気ピアニストのオスカー・ピーターソンさんが、ジャズ喫茶「テネシー・コーヒーショップ」(1953年10月末にオープンした日本で最初のライブハウス)に遊びに来た際、
秋吉敏子さんの演奏をとても気に入り、自身のプロデューサーであるノーマン・グランツさんに秋吉敏子さんを推薦したそうで、
このことがきっかけとなり、秋吉敏子さんは、1954年、ファースト・アルバム「アメイジング・トシコ・アキヨシ」をリリースし、アメリカデビューを果たしています。
秋吉敏子は26歳の時にバークリー音楽院に留学していた
そんな秋吉敏子さんは、このことをきっかけに、1956年、26歳の時には、ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に奨学生として留学したそうで、
秋吉敏子さんは、
54年にレコードが向こうで出たんです。当時、日本人がジャズを演奏すること自体珍しいし、それも女の子となるとましてや、ですよ。
それで、端的に言ってしまうと、学校が宣伝材料で呼んでくれたんです。あのころのバークリーは340人ぐらいの小さな学校ですから、生徒を増やすには宣伝が必要だと。だから、レコードが出ていなかったらダメだったと思います
と、語っています。
秋吉敏子は26歳頃にビバップ(モダンジャズ)を演奏する姿がアメリカで注目を集めていた
すると、日本から来た若い女性が激しくビバップ(モダンジャズ)を演奏する姿は、たちまち注目を集め、話題を呼んだそうで、
秋吉敏子さんは、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」やバークリー音楽院があるボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演し、キャリアを重ねたそうで、
バークリー音楽院卒業後は、ニューヨークに拠点を移し、本格的に音楽活動を開始すると、自身が結成したトリオとカルテットを中心に演奏するほか、ベースの巨匠として知られていたチャールズ・ミンガスさんのグループで演奏したそうです。
秋吉敏子は40歳の時に夫・ルー・タバキンと共に「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」を結成
また、秋吉敏子さんは、1969年、40歳の時には、フルート・テナーサックス奏者のルー・タバキンさんと結婚しているのですが、
1973年には、ロサンゼルスで、ルー・タバキンさんと「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」を結成しており、
秋吉敏子さんは、この頃のことを、
ルーはテレビの『トゥナイト・ショー』で演奏するようになっていたんです。ある時、番組の収録場所がニューヨークからロサンゼルスに変わったので、私たちも移ったわけです。
ロサンゼルスにはスタジオ・ミュージシャンが多く、ジャズがあまり盛んではなかった。でも、ミュージシャン・ユニオンの建物の中にリハーサルルームがあって、これが50セントで3時間借りられる。安いでしょ?
私は67年にニューヨークのタウンホールで自主コンサートをやったんですが、その時ビッグバンド用に5曲を書き下ろした。そのことをルーが知っていて、『自分がミュージシャンを集めるから、君の曲でもやってみよう』というわけね。
そういうことでビッグバンドが始まったけれど、最初、このバンドで仕事をしようという考えは誰にもなかった。でも私たちの演奏が人の噂になって、だんだん仕事が来るようになりました
と、語っています。
秋吉敏子は44歳の時にジャズと日本古来の和楽を融合したアルバム「孤軍」をリリース
その後、秋吉敏子さんは、1974年10月には、ジャズと日本古来の和楽を融合したアルバム「孤軍」をリリースすると、日本でセンセーションを呼んでいるのですが、
ほどなくして海外でもリリースされると、海外でも話題となり、世界中のコンサートに呼ばれるようになったそうです。
秋吉敏子は47歳の時にリリースしたアルバム「インサイツ」がアメリカのジャズ専門誌で高評価を獲得していた
また、秋吉敏子さんは、1977年にリリースしたアルバム「インサイツ」がアメリカのジャズ専門誌「ダウンビート」のベスト・アルバムに選ばれており、
同誌の読者投票では1978年から、批評家投票では1979年から、それぞれ5年連続1位を記録し、高評価を獲得しています。

1978年の秋吉敏子さん。
秋吉敏子は54歳~74歳まで「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」で活動
その後、秋吉敏子さんは、1982年にはニューヨークに戻ると、1983年には「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」を結成し、以降、通算30年に渡り、世界中で活動を続けていたのですが、
2003年12月29日、ニューヨークのジャズクラブバードランドでの演奏を最後に、「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」を解散しています。

秋吉敏子は「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」解散後はピアニストとしての活動を再開していた
そんな秋吉敏子さんは、その後は、ピアニストとしての活動を再開し、
主に、ソロや夫・ルー・タバキンさんとのトリオやカルテットといった少人数編成での演奏を中心に行い、世界各地でツアーや公演を行っています。
秋吉敏子の現在は?
その後も、秋吉敏子さんは、2023年には、93歳にして、活動の拠点であるニューヨークから来日し、北海道、東北、横浜、東京などで計8公演を行うなど、精力的に活動を続けているのですが、向上心は衰えることなく、

2023年の秋吉敏子さん。
ピアノ演奏に必要な指の筋肉が落ちないよう、毎日2時間ほどピアノを弾いているそうで、
秋吉敏子さんは、
後退することの方が少し多いかもしれない。とにかく昨日持っていたものを、今日少なくとも保持したい
と、意欲的に語っています。
また、2025年9月9日(秋吉敏子さん95歳)には、夫のルー・タバキンさんら3人の共演者とともに来日し、東京・第一生命ホールで、2年ぶりとなる公演を行っており、
秋吉敏子さんは、取材に対し、
この年齢でもたびたび呼んでもらえるのは光栄。客席に若い人の姿もあり、うれしかったですね
と、語っています。
秋吉敏子のアルバム(「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」として)
それでは最後に、秋吉敏子さんのアルバムを紹介しましょう。
「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」としては、
- 1974年「孤軍」
- 1975年「ロング・イエロー・ロード」
- 1975年「花魁譚」
- 1976年「ロード・タイム」
- 1976年「インサイツ」
- 1977年「マーチ・オブ・ザ・タッドポールズ」
- 1977年「ニューポート’77」
- 1977年「ライヴ・アット・ニューポートII」
- 1978年「塩銀杏」
- 1979年「すみ絵」
- 1980年「フェアウェル」
- 1981年「トシコから愛を込めて」
- 1982年「メモワール」
秋吉敏子のアルバム(「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」として)
「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」としては、
- 1984年「テン・ガロン・シャッフル」
- 1986年「ウィッシング・ピース」
- 1992年「カーネギー・ホール・コンサート」
- 1993年「砂漠の女」
- 1996年「フォー・シーズンズ」
- 1998年「モノポリー・ゲーム」
- 1999年「トリビュート・トゥ・デューク・エリントン」
- 2001年「ヒロシマ そして終焉から」
- 2002年「ベスト・オブ・秋吉敏子」
- 2004年「ラストライヴ・イン・ブルーノート東京」
を、リリースしています。
秋吉敏子の受章・受賞暦
そんな秋吉敏子さんは、
- 1997年「紫綬褒章」
- 2004年「旭日小綬章」
を受章するほか、
1999年には、日本人でただ一人、「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たしているほか、2006年には、ジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」も受賞しています。
「秋吉敏子の前夫・チャーリーマリアーノとの馴れ初めは?離婚理由は?娘は?」に続く
![]()
1950年代からピアニストとして活動を始めると、70年以上という長きに渡り、ニューヨークを拠点に精力的に活動を続け、2023年と2025年には来日公演も行っている、秋吉敏子(あきよし としこ)さん。 そんな秋吉敏子さんは …





























