1965年に、前夫・チャーリー・マリアーノさんと離婚すると、その後は、幼い娘を抱え、仕事面で苦しい状況に直面していたという、秋吉敏子(あきよし としこ)さんですが、
1969年には、フルート・テナーサックス奏者のルー・タバキンさんと再婚しています。
今回は、秋吉敏子さんの、再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンさんとの、結婚後の関係(夫婦仲)、現在についてご紹介します。

「秋吉敏子の前夫・チャーリーマリアーノとの馴れ初めは?離婚理由は?娘は?」からの続き
秋吉敏子の再婚相手(2番目の夫)はルー・タバキン
秋吉敏子さんは、1969年、11歳年下のフルート・テナーサックス奏者のルー・タバキンさんと再婚しています。
秋吉敏子さんとルー・タバキンさんは、1967年夏、ニューヨークで知り合ったそうですが、秋吉敏子さんは、馴れ初めについてほとんど語っていないようで、
どのようにして交際に発展し、結婚に至ったか詳細は不明です。
秋吉敏子は前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノと離婚後は仕事面で苦しい状況だった
実は、秋吉敏子さんは、前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノさんと離婚後は、音楽活動をするにあたり、バークリー時代のような学校の支援はなく、
日本での2年間のブランクも影響し、さらには、幼い娘を抱えていたことで、ジャズ演奏家に不可欠な長期ツアーに参加できないことが大きな痛手となり、厳しい状況に置かれていたそうで、
(バークリー時代の実績があったお陰で報酬は高く、月に1、2回の仕事で何とか暮らせてはいたそうですが)
実際、1965年までは、日米で約15枚のアルバムを発売することができていたそうですが、その後、1966年~1970年の約4年間は新作が出せないでいたそうで、
秋吉敏子さんは、この苦しい状況を突破するため、自分の音楽のすべてを見せることで、今後の道を開こうと考え、ニューヨークでのリサイタルを計画したそうですが、
資金を貯めて1967年秋、タウンホールでリサイタルを行うと、まさに全力を注いだプログラムで、ニューヨーク・タイムス紙には、好評価の記事が掲載されたそうですが、
(リサイタルは、ソロ、トリオ、ビッグバンドの3形式で構成されたそうですが、ほとんど経験のなかったビッグバンドでは、後の代表曲となる「すみ絵」「ザ・ヴィレッジ」などの新曲を演奏したそうです)
秋吉敏子さんは、この時のことを、
何か変わることを期待したけれど、何も変わらなかった
と、語っています。
秋吉敏子は再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンと結婚後も仕事は厳しく引越を機に音楽活動を引退していた
そんな中、秋吉敏子さんは、ルー・タバキンさんと出会い、結婚したそうですが、結婚後も仕事は相変わらず厳しい状況だったそうで、
1972年には、ルー・タバキンさんの仕事の都合でニューヨークからロサンゼルスに移り住むことになったそうですが、秋吉敏子さんは、これを機に、音楽活動から引退し、家庭に入ろうと決意したそうで、
秋吉敏子さんは、この時のことを、
米国にやって来て20年近くたつが、ジャズにそれほど貢献できなかった。オスカー・ピーターソンは彼独自のスタイルを確立したが、私は秋吉流を築いたわけではない。
ジャズをやってそこそこ稼げればいいじゃないかという考え方もあるでしょうが、私はそうじゃなかった。ジャズ界に痕跡を残していないという事実が嫌だった。引退して、それまでおろそかにしていた家事や子育てに専念しようと思っていました。
と、語っています。
秋吉敏子は自身の為に再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンに「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」を結成してもらっていた
こうして、秋吉敏子さんは、ロサンゼルスで主婦業に専念していたそうですが、
ある日のこと、夫のルー・タバキンさんに、
君の曲を演奏するリハーサルバンドを作らないか。メンバーは僕が集める
と、提案されたそうで、
秋吉敏子さんがこれを了承すると、1973年、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」が結成されたそうです。
そして、その後、秋吉敏子さんは、バンドで演奏する曲を作ることになったそうですが、曲を作るうち、1967年のニューヨークでのリサイタル時に曲を書いた時には漠然としていた思いが、徐々に明確になっていき、
1974年2月、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」としてパサデナのクラブで初舞台を踏むと、ビッグバンドへの手応えを感じたそうで、
古くからの知り合いだった日本のRCAレコードのディレクターに掛け合ってアルバム制作にこぎつけ、1974年10月、日本文化とジャズの融合を試みたアルバム「孤軍」を日本でリリースすると、異例の3万枚を売り上げたのだそうです。
(1万枚売ればヒットというジャズのアルバムとしては、3万枚は異例の売上だったそうです)
秋吉敏子は再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンと50年以上に渡って共演
その後も、秋吉敏子さんは、夫のルー・タバキンさんと、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」で共に活動し、
- 1975年「ロング・イエロー・ロード」
- 1975年「花魁譚」
- 1976年「インサイツ」
など数多くのアルバムを発売するほか、
2003年12月29日に解散するまで、精力的に公演活動も行うと、日本の伝統音楽とジャズを融合させた独自のサウンドで世界的に高い評価を得たのでした。
また、ルー・タバキンさんとは、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」解散後も、夫婦デュオコンサートや、トリオやカルテットといったスモールコンポ(少人数編成)での演奏を中心に行い、
2018年9月15日には、共演歴50周年を記念したデュオ公演を東京文化会館で開催するほか、2025年現在も、世界各地でツアーや公演を行っています。

ルー・タバキンさんと秋吉敏子さん。
秋吉敏子の子供は?
ちなみに、秋吉敏子さんとルー・タバキンさんの間に子供はいません。
(ただ、秋吉敏子さんは、前夫・チャーリー・マリアーノさんとの間に、娘・Monday満ちるさんを出産しています)
さて、いかがでしたでしょうか。
秋吉敏子さんの、
- 秋吉敏子の生い立ちは?幼少期からピアノ!16歳でジャズピアニスト!
- 秋吉敏子のプロフィール
- 秋吉敏子は幼少期からピアノを習い始めていた
- 秋吉敏子は16歳の時に駐留軍キャンプでジャズピアニストとして活動を開始していた
- 秋吉敏子は19歳の時に上京し駐留軍のキャンプで演奏活動をしていた
- 秋吉敏子は23歳の時に「コージー・カルテット」を結成していた
- 【画像】秋吉敏子の若い頃から現在までのアルバム(CD)ほか経歴は?
- 秋吉敏子は25歳の時にアルバム「アメイジング・トシコ・アキヨシ」でアメリカデビューしていた
- 秋吉敏子は26歳の時にバークリー音楽院に留学していた
- 秋吉敏子は26歳頃にビバップ(モダンジャズ)を演奏する姿がアメリカで注目を集めていた
- 秋吉敏子は40歳の時に夫・ルー・タバキンと共に「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」を結成
- 秋吉敏子は44歳の時にジャズと日本古来の和楽を融合したアルバム「孤軍」をリリース
- 秋吉敏子は47歳の時にリリースしたアルバム「インサイツ」がアメリカのジャズ専門誌で高評価を獲得していた
- 秋吉敏子は54歳~74歳まで「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」で活動
- 秋吉敏子は「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」解散後はピアニストとしての活動を再開していた
- 秋吉敏子の現在は?
- 秋吉敏子のアルバム(「秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド」として)
- 秋吉敏子のアルバム(「秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン」として)
- 秋吉敏子の受章・受賞暦
- 秋吉敏子の前夫・チャーリーマリアーノとの馴れ初めは?離婚理由は?娘は?
- 秋吉敏子の前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノとの馴れ初めは?
- 秋吉敏子は前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノと「トシコ=マリアーノ・カルテット」を結成していた
- 秋吉敏子の前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノとの離婚理由は?
- 秋吉敏子は前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノとアルバム「TOSHIKO MARIANO QUARTET」をリリースしていた
- 秋吉敏子の子供(娘)はMonday満ちる
- 秋吉敏子の夫(再婚相手)はルー・タバキン!結婚後の夫婦関係は?現在は?
- 秋吉敏子の再婚相手(2番目の夫)はルー・タバキン
- 秋吉敏子は前夫(最初の夫)チャーリー・マリアーノと離婚後は仕事面で苦しい状況だった
- 秋吉敏子は再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンと結婚後も仕事は厳しく引越を機に音楽活動を引退していた
- 秋吉敏子は自身の為に再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンに「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド」を結成してもらっていた
- 秋吉敏子は再婚相手(2番目の夫)ルー・タバキンと50年以上に渡って共演
- 秋吉敏子の子供は?
について、ご紹介しました。
小学1年生でピアノを習い始め、16歳で駐留軍キャンプでジャズピアニストとしての活動を開始すると、やがて、日本人女性として初めて本格的にビバップ(モダンジャズ)を演奏し、バークリー音楽院への留学を経て、ジャズと日本古来の和楽を融合した独自のスタイルで世界的な評価を確立し、ビッグバンドのリーダーとして、また作曲家・編曲家としてジャズ界を牽引し続けた秋吉敏子さん。
そんな秋吉敏子さんも、現在は90代という高齢になっているのですが、ピアニストとして世界各地で公演を行い、毎日2時間のピアノ練習を欠かさず第一線で活動し続けており、その貪欲さには驚かされるばかりです。
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1956年、26歳の時、日本人として初めてバークリー音楽院に奨学生として渡米し、以来、ニューヨークを拠点に活動すると、1973年、44歳の時には、「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド」を結成し、「孤軍」「インサイツ …












