1969年、再デビュー曲「夜明けのスキャット」が大ヒットを記録すると、1970年には、再デビュー後5枚目のシングル「手紙」も大ヒットとなり、以降、歌手、タレント、女優、司会ほか、マルチな活躍を続けてきた、由紀さおり(ゆき さおり)さん。

今回は、そんな由紀さおりさんの、歌手(ソロ)としての経歴を、若い頃(再デビュー以降)から現在まで時系列でご紹介します。

由紀さおり

「【画像】由紀さおりの若い頃(下積時代)はキャバレー周りやCM歌手も!」からの続き

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由紀さおりは20歳の時に再デビュー曲「夜明けのスキャット」がミリオンセラーとなる大ヒット

1965年2月、17歳の時に、「ヒッチハイク娘」で歌謡曲の歌手としてデビューし、その後、次々とシングルをリリースするも、まったく売れなかったという由紀さおりさんは、

約1年ほどでCMの仕事に戻ったそうで、この頃には、歌手としてヒットを目指そうとは考えず、CMソングの歌い手として活動していたそうですが・・・

やがて、作曲家のいずみたくさんから、自身が作曲した深夜ラジオ番組「夜のバラード」のオープニング曲に、

(歌詞がなかったため)好きな言葉を載せて歌ってみてほしい

と、言われ、

由紀さおりさんが、(当時、CM業界で流行り始めていた)スキャット(ルルル♪ラララ♪)で歌ったところ、

放送開始直後から、

何ていう映画の曲なのか?

歌っているのは誰ですか?

など、放送局やレコード店にリスナーからの問い合わせが殺到したそうで、

この大反響から、2番に歌詞がつけられ、翌年1969年3月10日、由紀さおりさんは、「安田章子」から「由紀さおり」に改名し、この曲(「夜明けのスキャット」)で再デビューすると、「夜明けのスキャット」はミリオンセラーとなっています。

(当時、新番組として放送予定だったアニメ「サザエさん」のスタッフは、由紀さおりさんに主題歌の歌唱を依頼するつもりだったそうですが、「夜明けのスキャット」での再デビューの時期と重なり、断念していたといいます)

由紀さおり
「夜明けのスキャット」

由紀さおりは再デビューには消極的でいずみたくに説得されてやむなくだった

とはいえ、実は、当初、由紀さおりさんは、過去に歌手活動を失敗していたほか、結婚を控えていたことから、再デビューには消極的で、いずみたくさんに説得されて、やむなくという感じだったといいます。

さらに、「夜明けのスキャット」は、リリース直後はあまり話題とならなかったといいます。

そんな中、札幌のラジオ局のディレクター・竹田健二さんが、この曲を気に入って札幌のラジオ局で頻繁に流したことから、東京のラジオ局でも流れるようになり、少しずつ認知され始めると、

やがては、オリコンシングル週間ヒットチャートで8週に渡って第1位となり、109万枚を売り上げる大ヒットを記録して、1969年最大のヒット曲となったそうで(2009年までで150万枚の売上)、

由紀さおりさんは、この年(1969年)の「第20回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たすなど、たちまちブレイクを果たしたのでした。

ちなみに、竹田健二さんは、後にシンガーソングライターとなる松山千春さんも発掘していることから、

由紀さおりさんは、

竹田さんを通して松山さんとは“兄弟弟子”です

と、語っています。

由紀さおりは「夜明けのスキャット」以降は再び低迷していた

しかし、1969年7月にリリースした、再デビュー後2枚目となるシングル「天使のスキャット」は、9万枚のセールスに留まり、

由紀さおり
「天使のスキャット」

その後、

  • 1969年年10月には、3枚目のシングル「枯葉の街」
    由紀さおり
    「枯葉の街」
  • 1970年2月には、4枚目のシングル「好きよ」
    由紀さおり
    「好きよ」

と、リリースするも、まったく売れず、再び低迷してしまいます。

(「夜明けのスキャット」のイメージがあまりにも強すぎたため、そこから脱却できずにいたそうです)

由紀さおりは21歳の時に5枚目のシングル「手紙」が大ヒット

そんな中、師匠である作曲家のいずみたくさん(「夜明けのスキャット」ほか由紀さおりさんの曲を多数作曲)から、

偏向は良くない。一度違う人の曲でいってみたら。

とアドバイスされたそうで、

その後、何人もの作曲家、作詞家をあたり、1970年7月5日、21歳の時、5枚目のシングル「手紙」(なかにしれいさん作詞、川口真さん作曲・編曲)をリリースすると、9月7日付けのオリコンで1位を獲得。

その後も、「手紙」は、6週連続トップを走り、70万枚を売り上げる大ヒットを記録したそうで、年末には「第12回日本レコード大賞」歌唱賞を受賞し、「第21回NHK紅白歌合戦」にも2年連続での出場を果たしたのでした。

由紀さおり
「手紙」

ちなみに、由紀さおりさんは、その当時を振り返り、

あの時代、多くのヒット曲が生まれましたが、1曲で終わるケースが多かった。だから、2曲目が大事なんです。’70年リリースの「手紙」がミリオンセラーになったとき、ようやく、私は音楽の世界にいてもいいのかなと思えるようになりました。

私にとってこの曲は本当にいい便りを届けてくれた幸運の“手紙”。“スキャットのさおり”と言われ、スローテンポの清純な曲しか歌えないと言われて、正直悔しかった。スローテンポのものから一変してリズミカルなものにしたのが良かった

などと、語っています。

由紀さおりは21歳~29歳の時に「生きがい」「ルーム・ライト」「挽歌」などをリリースし”酔い覚ましの清涼剤”と高く評価されていた

以降、由紀さおりさんは、

  • 1970年11月5日「生きがい」
    「生きがい」
    「生きがい」
  • 1972年7月1日「故郷」
    「故郷」
    「故郷」
  • 1973年3月1日「ルーム・ライト (室内灯)」
    「ルーム・ライト」
    ルーム・ライト (室内灯)
  • 1974年9月1日「挽歌」
    「挽歌」
    「挽歌」
  • 1976年12月20日「ふらりふられて」
    「ふらりふられて」
    「ふらりふられて」
  • 1977年5月5日「う・ふ・ふ」
    「う・ふ・ふ」
    「う・ふ・ふ」
  • 1978年9月20日「トーキョー・バビロン」
    「トーキョー・バビロン」
    「トーキョー・バビロン」

などの歌謡曲を次々とリリースすると、

その確かな歌声は、”酔い覚ましの清涼剤”と称され、高く評価されたのでした。

由紀さおりは32歳の時に紅白を落選したのをきっかけに原点回帰し姉・安田祥子と童謡を歌い始めていた

そんな由紀さおりさんは、10年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場していたのですが・・・

11年目の1980年には落選したそうで、当然、選出されるものと思っていた由紀さおりさんはがっくり。

思い悩んだ結果、もう一度、自身の歌うべき歌を探すことを決めると、満を持して、デビュー15周年となる4年後、NHKホールでコンサートを開こうとしたそうですが・・・

今度は、突然、

オーケストラを入れて、一人で2時間半も歌えるかしら。

と、不安になったそうで、

お母さんに相談したところ、姉の安田祥子さんと一緒にすることを提案され、姉妹の原点であった童謡を安田祥子さんと共に歌うと、大反響を呼んだそうで、

この年の暮れには「第28回日本レコード大賞企画賞」を受賞し、1987年には、9年ぶりに、「第38回NHK紅白歌合戦」出場を果たしたのでした。

由紀さおりと「ピンク・マルティーニ」のコラボのきっかけは?

その後、由紀さおりさんは、姉・安田祥子さんとの童謡で成果を出してからも、ソロとしての自身の歌を模索し続けていたそうで、

デビュー40年目となる2009年には、もう一度、歌謡曲にチャレンジしたいと思っていたそうですが、

そんな中、スタッフがYouTubeで、アメリカのジャズ・グループ「ピンク・マルティーニ」が由紀さおりさんの1stアルバム「夜明けのスキャット」(1969年リリース)の収録曲「タ・ヤ・タン」を日本語でカバーしているライブ動画を発見したそうで、

「Taya Tan(Pink Martini)」

由紀さおりさんが、「ピンク・マルティーニ」に、その動画を40周年コンサートで使いたいとメールすると、このことをきっかけに「ピンク・マルティーニ」と交流するようになり、

2010年3月には、「ピンク・マルティーニ」来日公演で初共演を果たすと、同年11月にリリースされた「ピンク・マルティーニ」のホリデイ・アルバム「Joy to the World」では、由紀さおりさんが「ホワイト・クリスマス」を日本語で歌唱したのだそうです。

(「ピンク・マルティーニ」のリーダーでピアニストのトーマス・M・ローダーデールさんが、地元ポートランドの中古レコード店で、アルバム「夜明けのスキャット」(アナログ盤のレコード)を発見し、ジャケットのビジュアルに惹かれて購入し、聴いてみると、由紀さおりさんの透明感あふれる歌声に魅了されたそうで、2007年にリリースした「ピンク・マルティーニ」のアルバムに収録したこのカバー曲を2009年にYoutubeにアップしたのだそうです)

由紀さおりは62歳の時に「1969」が世界中で大ヒット

また、2011年には、「ピンク・マルティーニ」が東日本大震災の被災地支援のチャリティライブをオレゴン州で企画しているのを知った由紀さおりさんが、現地に飛び、チャリティライブ「オレゴンから愛」に参加するほか、その後も、「ピンク・マルティーニ」とのコラボレーションは様々な形で続いたそうで、

由紀さおりさんは、これをきっかけに、自身がデビューした1969年にスポットを当て、当時、流行していた歌をセレクトしたアルバム制作を開始しようと、このアルバムのアレンジとプロデュースをピンク・マルティーニに依頼すると、

「ピンク・マルティーニ」からの提案で、世界でヒットしたスタンダード楽曲も加えられ、「ピンク・マルティーニ」とのコラボレーションアルバム「1969」となったそうで、

2011年10月、世界50か国以上で同時配信すると、アメリカやカナダのiTunesジャズチャートで1位を獲得する世界的な大ヒットを記録したのでした。

(日本は同シングルチャートで7位)

created by Rinker
ユニバーサル ミュージック (e)

ちなみに、由紀さおりさんは、

彼らと一緒に、アメリカやヨーロッパでツアーして。挨拶は、拙い英語でしましたが、歌は日本語でいいって言ってくれて。日本語で歌っても、全然、違和感がないんです。音楽に国境がないって、身をもって体験できました

と、語っており、

(これまで何度も挫折を味わい、歌を辞めたいと思ったことがあるも)歌い続けていて、本当に良かったと思ったといいます。

また、「ピンク・マルティーニ」のリーダーであるトーマス・ローダーデールさんは、

由紀さおりさんとEMI Music Japanから、このアルバムのお話を頂いて非常に光栄です。初めのアルバム・コンセプトは“1969年の日本のヒット曲”でしたが、リサーチをする中で、あらゆる国において1969年には大きな動きがあったことを発見しました。

そこでピンク・マルティーニ的な手法で範囲を広げて、他の国の楽曲も、異なる言語で含めることにしたのです。結果として、1969年へと遡る華やかなアドベンチャーを飾る12の作品が、日本語・フランス語・英語で生まれました。

と、語っています。

「夜明けのスキャット(ピンク・マルティーニ ft.由紀さおり)

由紀さおりは66歳の時には45周年記念コンサートツアー「偶然の結晶~45年の歌声~」を開催

その後も、由紀さおりさんは、2014年には、秋元康さんプロデュースで、45周年記念コンサートツアー「偶然の結晶~45年の歌声~」を開催するなど、精力的に活動を続けており、

コンサートで観客に、

「夜明けのスキャット」が最初のターニングポイントであるならば、姉・安田祥子とのユニットは2度目の大きなターニングポイントになりました。

そして3回目のターニングポイントは、ピンク・マルティーニという、ジャズオーケストラの皆さんとの出会いでした。

人生は、いくつになってもターニングポイントってあるんですね。いまの私の毎日は、明日また歌えるためにあります。食事をするのも睡眠をとるのも運動をするのも、みんな明日また元気で歌えるためです。だから50周年もまた来てくださいね。

と、語っています。

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由紀さおりの現在は?

そして、デビュー55年目となる2024年4月17日には、シングル「人生は素晴らしい」とベストアルバム「由紀さおりベストオブベスト~55th anniversary」をリリースすると、

「人生は素晴らしい」
「人生は素晴らしい」

同年5月17日と18日には、フランス・パリで公演も開催するなど、80歳間近という高齢にもかかわらず、精力的に活動を続けています。

「【画像】由紀さおりが姉・安田祥子と童謡を始めた経緯は?アルバムは?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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