1975年10月、「さよなら ぼくの ともだち」でデビューすると、若い世代からカルト的な支持を受けるも、本名は非公開、人前ではいつもサングラス、男性的な服装というスタイルで、その素顔を謎に包み、”孤高のシンガー”と称された、森田童子(もりた どうじ)さん。

そんな森田童子さんは、無謀な事業の立ち上げと失敗を繰り返すお父さんのもとに誕生すると、幼い頃は、いつも、経済的な苦しさと隣合わせの生活を送っていたそうですが、

15歳の時、叔父・なかにし礼さんが作詞家として大成功を収め、なかにし礼さんが建てた豪邸に一家で移り住むと、なかにし礼さんから音楽を学んだといいます。

今回は、森田童子さんの、生い立ち(幼少期~19歳で父親が夜逃げするまで)をご紹介します。

森田童子

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森田童子のプロフィール

森田童子さんは、1953年1月15日生まれ、
※公では「1952年生まれ」なっていますが、なかにし礼さんの著書「血の歌」では、「1953年生まれ」と書かれています。

東京都品川区大井町の出身、
青森県青森市生まれ、

本名は、前田美乃生(まえだ みのぶ)(旧姓は中西)

叔父(父の弟)は、作詞家のなかにし礼さんです。

ちなみに、全共闘世代から絶大な支持を集めた森田童子さんですが、森田童子さん本人は学生運動に参加したことはなく(学生運動がピークの頃、森田童子さんはまだ高校生)、「東京教育大学の紛争に関わっていた」という噂も、後年、森田童子さん本人が否定しています。

森田童子は生まれた時に外が猛吹雪で産婆が間に合わず、臍の緒も切れずに待たされていた

森田童子さんの父・正一さんは、陸軍特別操縦見習士官として出征していた太平洋戦争が終戦し、復員すると、父(森田童子さんの祖父)の実家がある北海道・小樽に戻り、ニシン漁への投資で再出発を図ったそうですが、

これに失敗して多額の借金を背負ったそうで、借金の際、自宅を担保にしていたことから、自宅を失い、親類を頼って、一家で青森県青森市に移り住んだそうです。

そんな中、森田童子さんは、3人きょうだい(姉1人弟1人)の次女として青森県青森市で誕生したそうですが、外は猛吹雪で、こたつ以外に暖を取るものが何もない極寒の部屋の中で誕生したそうで、

吹雪のため、産婆さんの到着が間に合わない中、生まれたばかりの森田童子さんは、叔母さん(森田童子さんの父親の妹)が、脱脂綿の袋を5~6個引きちぎって作ったかまくらのようなものの中で、産婆さんが到着するまで、血まみれのまま、へその緒も切らずに寝かされていたといいます。

森田童子は5歳の時に転んでアイスキャンディの箸が喉の奥に刺さって血まみれになるも舐め続けていた

また、その後、正一さんは、再起をかけて、一家で上京し、東京の品川区大井町で暮らすことになったそうですが、その後も無謀な事業の立ち上げと失敗を繰り返し、一家の暮らしは常に経済的な苦しさと隣り合わせだったといいます。

(さらに、正一さんは、愛人の家に入り浸り、お正月でさえも家族と過ごさず、ほとんど家族を顧みることがなかったそうです)

そんな中、森田童子さんが5歳の時には、珍しく、正一さんが夏祭りに連れて行ってくれたそうで、正一さんに手を引かれて夜店を見て回り、そろそろ帰ろうかという頃、正一さんが、アイスキャンディを買ってくれると言ったことから、

(夜店には、ヨーヨー、天狗のお面など、子供が欲しがるものばかり並んでいたそうですが、貧しく、子供にそんなものを買ってあげる余裕がなかった正一さんは、そろそろ帰ろうかという頃、このまま帰ったのでは、子供があまりにもかわいそうだと思ったようです)

森田童子さんは、大喜びで、メロン色のアイスキャンディを選び、箸の棒の先を握りしめ、アイスキャンディをなめながら歩いていたそうですが・・・

アイスキャンディが半分ほどになった時、何かにつまずいて、前に転んでしまったそうで、正一さんと手をつないでいなかった森田童子さんは、そのまま、顔ごと前に倒れ、アイスキャンディの箸が喉の奥に突き刺さってしまったのだそうです。

そして、森田童子さんは、アイスキャンディをくわえたまま、泣き叫んだそうですが、メロン色のアイスキャンディはみるみるうちに血で染まっていったそうで、

慌てた正一さんが、森田童子さんを抱き起こし、早く帰ろうと、アイスキャンディを森田童子さんの手からもぎとって捨てようとしたそうですが、

森田童子さんは、泣きながら、アイスキャンディの箸をしっかり握って離さず、口の回りを血だらけにしたまま、舐め続けたといいます。

(すでに、アイスキャンディは、メロン色ではなく、血の色に染まっていたそうです)

森田童子は叔父・なかにし礼と一緒に暮らしていた(0歳~4歳と15歳~19歳の頃)

また、森田童子さんは、この東京都品川区大井町で、4歳頃まで、まだ中学生~高校生だった叔父(父の弟)のなかにし礼さんと一緒に暮らしていたそうですが、

なかにし礼さんは、高校生の時、正一さんとケンカをして家を出て行ってしまったといいます。

ただ、なかにし礼さんは、その後、作詞家として大成功を収め、1968年(森田童子さん15歳)には、その印税で東京都中野に豪邸を建てており、森田童子さんを含めた正一さん一家もその豪邸に一緒に移り住んだそうです。

森田童子は叔父・なかにし礼から音楽を学んでいた

ちなみに、森田童子さんは、なかにし礼さんととても気が合ったそうで、森田童子さんが、しばしば、なかにし礼さんの肩を叩いてあげると、なかにし礼さんも、歌を書くとはどういうことかなどの秘密を、語って聞かせたそうで、

そんな影響もあってか、森田童子さんは、やがて、ピアノやギターを手にするようになったといいます。

(なかにし礼さんが教えたという説も)

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森田童子は19歳の時に父親の夜逃げで家がなくなり恋人と同棲を始めていた

しかし、尊敬する叔父(なかにし礼さん)との暮らしは、父・正一さんによって無惨にも壊されてしまったといいます。

というのも、正一さんは、なかにし礼さんの実印を勝手に使って保険契約をするほか、無謀な会社経営で失敗を繰り返し、6億円もの借金をなかにし礼さんに背負わせたまま、夜逃げしてしまったのだそうです。

そんな中、なかにし礼さんは、借金返済のため、保有していたビルを全て手放さなければならなくなり、みんなで一緒に暮らしていた中野の豪邸からも出ていかなくてはならなくなったそうで、

この時、19歳だった森田童子さんは、親元を離れ、交際していた男性(後に夫となるイラストレーターの前田亜土さん)と同棲を始めたのだそうです。

「【画像】森田童子の若い頃(デビュー)から死去までのアルバムほか経歴は?」に続く

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