1975年、「さよなら ぼくの ともだち」でデビューすると、挫折や孤独といった心の痛みに寄り添うような、消え入りそうで、それでいて全てを包み込むような歌声で、カルト的な支持を集めた、森田童子(もりた どうじ)さん。
今回は、そんな森田童子さんの若い頃(メジャーデビュー~引退~「高校教師」の主題歌で再ブレイク)から他界されるまでのアルバム、シングルほか、経歴を時系列でご紹介します。

「森田童子の生い立ちは?父親のため極貧!なかにし礼(叔父)と同居も!」からの続き
森田童子は22歳の時に「さよならぼくのともだち」でメジャーデビュー
森田童子さんは、1972年、19歳頃、友人が他界したことがきっかけで、本格的に音楽活動を始めたそうで、
1975年10月21日には、他界した友人を歌にした「さよならぼくのともだち」でメジャーデビューを果たすと、たちまち、若い世代から、注目を集め、カルト的な支持を受けています。

「さよならぼくのともだち」
ちなみに、ライブハウス「ロフト」グループのオーナーの平野悠さんは、森田童子さんが20歳の時のことを、
これからはロックだという時代に、太宰(治)がどうしたとか、誰かが死んだとかいうようなことを、いつもボロボロ泣きながら、顔じゅう涙で濡らしながら歌ってたんです。
友達が学生運動の最中に倒れて死んだ。そのひとのことを歌いたくて始めたんだということをよく言ってました
と、語っており、
当初は、そのか細い声やリアリティーあふれる歌詞がウケるとは思ってもみなかったといいます。
森田童子が素顔を隠して活動していた理由とは?
また、森田童子さんは、活動中、常に、サングラス、カーリーヘア、男性的な服装に身を包むほか、本名などのプライベートも一切明かしておらず、
森田童子さんと親交のあった劇作家の高取英さんは、
サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。
前田(亜土)さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした
と、明かしているのですが、
森田童子さんは、デビューに当たり、
叔父さんの七光りで世に出たくない
と、叔父が有名作詞家のなかにし礼さんであったことから、その影響力に頼らず実力で勝負したいと、希望していたといいます。
また、プロデューサーの松村慶子さんも、歌謡界の成功者であるなかにし礼さんとは対極的な存在「アングラ・反体制」の象徴として、マイナーなところから森田童子さんを売り出したいと考えていたといいます。
(松村慶子さんは、なかにし礼さんを見出し、作詞家としてデビューさせた人物)
森田童子が30歳で突然引退した理由は?
そんな森田童子さんは、小さなライブハウスや、舞台設備のない小劇場、幼稚園、集会場、テント公演を展開し、アンダーグラウンドのフィールドで、商業主義とは一線を画した活動を続けていたのですが、
アルバム7枚、シングル4枚を発表した後、1983年、30歳の時、新宿ロフト公演を最後に、突然、音楽活動を停止すると、以降、生涯、表舞台に出ることはありませんでした。(事実上、引退)
そして、その理由については、「病気」「出産」など諸説ありますが、
森田童子さんは、1980年、屋外ライブの企画から実現までを追ったドキュメンタリー映像「夜行」の中で、
あと何年か後には、東京にテントを張ることは不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていくさまを、私たちの歌が消えていくさまを、見てほしいと思います。
今回のテント劇場は、私たちのコンサート活動の終末かもしれません。ひとつの終わりの時代に向けて、私たちの最後のせつない夢を、見てほしいと思います
と、静かに視聴者に向けて語りかけており、
1980年代に入り、かつてのフォークブームが過去のものとなる中で、森田童子さん自身は、「語るべきことを語り尽くした」と感じていたのかもしれません。
森田童子は27歳の時に開催したテントコンサート「夜行」で近い将来の終焉を予測していた
実際、森田童子さんは、引退する3年前の1980年11月20日~24日には、池袋の三越裏でテントコンサート「夜行」を開催しているのですが、
都内の公園や国鉄用地などにテント設置許可を求めるも、ことごとく断られ、一度は都立青山公園での開催が決まったものの、後に許可が撤回され、紆余曲折の末、ようやく、池袋の空き地に500人収容の「黒色テント」を張り、開催にこぎつけていたほか、
この舞台裏を追ったドキュメンタリー番組「青春の日本列島~森田童子 ラストワルツ~」でも、
スタッフが店にポスター掲示を依頼するも、
フォークはうちの客層に合わない
と、断られ、
来場した女性ファンが、
(森田童子さんの音楽は)今の時代と違う、そこが好き
と、語っており、
1980年代に入って、かつてのフォークブームが過去のものとなりつつあることが浮き彫りになっていたといいます。
森田童子は39歳の時に「ぼくたちの失敗」がドラマ「高校教師」の主題歌に使われ95万枚を売り上げる大ヒット
こうして、表舞台から姿を消した森田童子さんは、(カルト的な人気を誇っていたものの)全国的に見れば、ファンが少数だったことや、商業的に大ヒットを飛ばすことがなかったこと、自身がメジャー化を望んでいなかったこともあり、その作品は、マスコミなどに表立って紹介をされることはなかったのですが、
1993年1月、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、シングル「ぼくたちの失敗」が使われると、95万枚を売り上げる大ヒットを記録し、森田童子さんは、一躍、脚光を浴びています。
(このヒットをきっかけに、ベストアルバムの制作が決定するほか、既に1988年にCD化されていた初期の4作品も、1993年当時は入手困難な廃盤状態だったため、改めて全作品が再リリースされることとなりました)
森田童子の「ぼくたちの失敗」がドラマ「高校教師」の主題歌に使われ理由とは?
ちなみに、「高校教師」を手掛けたプロデューサーの伊藤一尋さんによると、当時、ドラマの主題歌は、大物ミュージシャンに新曲を書いてもらうのが主流だったところ、「高校教師」は、近親相姦など、禁忌さえ犯す人の根源的な弱さも描かれた作品だったことから、脚本家の野島伸司さんと共に、その手法に違和感を覚えていたそうで、
そんな中、喫茶店で、野島伸司さんと思案に暮れていると、どちらからともなく、
森田童子って知ってる?
と、言い出し、学生時代に、聞き覚えのあった森田童子さんの曲を聞き返してみると、
どれもが主題歌になりそうなほど、耳にしっくりとなじんだことから、森田童子さんの曲を主題歌に決めたそうで、
伊藤一尋さんは、
人の弱さをいとおしむように歌う森田童子の音楽の世界観が、ドラマのそれと、まさに共鳴し合っていました。野島さんも聴きながら構想を練っていると、イメージが溢れ出てきそうだと意気込んでいました
と、語っています。
(この「ぼくたちの失敗」は、2枚目のアルバム「マザー・スカイ」の1曲目に収録されています)
森田童子は「高校教師」での再ブレイク後も一切表舞台に出ることはなかった
そして、この大ヒットにより、世間からは、森田童子さんの復帰を熱望する声が上ったのですが・・・
森田童子さん本人には復帰の意思がなく、取材にもほとんど応じることがなかったそうで、その後も、森田童子さんは「謎の歌手」のまま、沈黙を守り、表舞台に出ることはありませんでした。
ちなみに、森田童子さんと交流のあった劇作家・高取英さんは、1983年、森田童子さんが引退する直前にあった出来事について、
「聖(セント)ミカエラ学園漂流記」(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え……』って。
そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって
と、語っているのですが、
こういったエピソードから、森田童子さんが、語っていた、
学生運動の最中に倒れて死んだ友達のことを歌いたくて音楽活動を始めた
という言葉に、嘘(うそ)偽(いつわり)がないことが伺えます。
森田童子は65歳で死去していた
それから長い年月が経った2018年4月、森田童子さんが自宅で死去していたことが、同年6月、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会報に掲載されたことで明らかとなりました。
森田童子さんは、体調を崩し、2017年から入退院を繰り返していたそうで、退院後、まもなく、自宅で、心不全により、65歳で、他界されたといいます。
森田童子のディスコグラフィー(シングル)
それでは、最後に、森田童子さんのディスコグラフィーをご紹介しましょう。
シングルでは、
- 1975年「さよならぼくのともだち/まぶしい夏」

「さよならぼくのともだち」 - 1976年「ぼくたちの失敗/ぼくと観光バスに乗ってみませんか」

「ぼくたちの失敗/ぼくと観光バスに乗ってみませんか」 - 1978年「セルロイドの少女/蒼き夜は」

「セルロイドの少女/蒼き夜は」 - 1981年「ラスト・ワルツ/菜の花あかり」

「ラスト・ワルツ/菜の花あかり」 - 1993年「ぼくたちの失敗/男のくせに泣いてくれた」※活動停止以降
- 1993年「たとえば ぼくが死んだら/ラスト・ワルツ」
- 2003年「ぼくたちの失敗/蒸留反応」
森田童子のディスコグラフィー(アルバム)
アルバムでは、
- 1975年「GOOD BYEグッドバイ」
- 1976年「マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=」
- 1977年「A BOY ボーイ」
- 1980年「ラスト・ワルツ」
- 1982年「夜想曲」
- 1983年「狼少年 wolf boy」
森田童子のディスコグラフィー(ライブ・アルバム)
ライブ・アルバムでは、
- 1978年「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」
- 2023年「FM東京 パイオニア・サウンドアプローチ実況録音盤」
- 2024年「1980年11月28日札幌教育文化会館実況録音盤」
森田童子のディスコグラフィー(ベスト・アルバム)
ベスト・アルバムでは、
- 1978年「森田童子全曲集」
- 1980年「森田童子の世界」
- 1981年「友への手紙 森田童子自選集」
- 1993年「ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション」※活動停止以降
- 1993年「たとえばぼくが死んだら 森田童子ベスト・コレクションII」
- 2003年「ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション」
- 2022年「ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション」
を、リリースしています。
「森田童子の夫・前田亜土との馴れ初めは?死因は死別のショック?子供は?」に続く
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