23歳の時にビートたけしさんと「ツービート」を結成すると、当時のテレビではタブー視されていたブラックジョークを連発するコントで、一躍、脚光を浴び、漫才ブームが去った後は、俳優、タレントとして、活動を続けている、ビートきよしさん。

そんなビートきよしさんは、幼い頃から学芸会などの芸事が好きで、中学生の時、芸能界に憧れるようになると、中学卒業後は、一旦、高校に進学するも、中退して、地元の自動車修理工場で働いていたそうですが、

18歳の時、週刊誌に掲載されていた「タレント募集」の広告を見て応募すると、見事、一次審査に通過し、東京で行われる二次審査の通知が来たといいます。

今回は、そんなビートきよしさんの、幼少期(生い立ち)からタレント募集の広告に応募して合格するまでをご紹介します。

ビートきよし

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ビートきよしのプロフィール

ビートきよしさんは、1949年12月31日生まれ、
山形県最上郡最上町の出身、

身長170センチ、

血液型はB型、

趣味は、ゴルフ、スキー、

ちなみに、本名は、「兼子二郎」(かねこ にろう)で、
旧芸名は、松鶴家二郎、空きよし、兼子きよし、ビートキヨシです。

また、尺八奏者の米谷智さんは実弟です。

ビートきよしが誕生してすぐの頃に母親はダイナマイトを踏んで足を失う大ケガを負っていた

ビートきよしさんは、鉱山でダイナマイトの発破係をしていたお父さんのもと、3人兄弟の次男として誕生したそうですが、

ビートきよしさんが誕生してすぐの頃、お父さんが鉱山で使うダイナマイトを(理由は不明ですが)家に持って帰って、どこに置いたか分からなくなってしまったそうで、

探しているうちに、お母さんがそのダイナマイトを踏んで爆発し、お母さんは、なんとか一命は取り留めたものの、足を失う大ケガを負ったそうです。

それでも、お母さんは、その後、義足をはめて、田んぼや畑で働きながら、ビートきよしさんたち男の子ばかりの兄弟を一生懸命育ててくれたそうです。

(ちなみに、お父さんは無傷だったそうです)

ビートきよしは中学時代からどうしたら芸能界に入れるか考えていた

ビートきよしさんは、幼い時、学芸会がすごく楽しかったことから、芸事が好きになり、中学時代には、どうしたら芸能界に入れるかを考えていたそうで、

そのためには、標準語を覚えようと、テレビを見ながら標準語の勉強をしていたそうです。

(当時は、お金持ちの家なら、次男でも分家を作って地元に残れたそうですが、ビートきよしさんの家は裕福ではなかったことから、分家を作ることができず、次男だったビートきよしさんはいずれ家を出ていかなければならなかったのだそうです)

ビートきよしは高校を中退して働いている時に週刊誌でタレント募集の広告を見て応募すると一次審査に合格していた

そんなビートきよしさんは、中学卒業後、一旦は高校に進学するも中退し、その後は、お父さんの知り合いの小さな自動車修理工場で働いていたそうですが、

18歳の冬のある日のこと、週刊誌で「東京宝映」という養成所のタレント募集の広告を見つけたそうで、迷うことなくすぐに応募すると、見事、一次審査に合格したそうで、東京で行われる二次審査の通知が来たそうです。

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ビートきよしは18歳の時に上京して「東京宝映」の二次審査(面接)を受けると合格していた

そこで、ビートきよしさんが、

お母さんに、

おれは東京でスターになる

と言い、2万円を無心すると、

お母さんは、

バカか

と、あきれつつも、(当時とはしてはかなり大金だった)2万円をくれたそうで、

ビートきよしさんは、その2万円とボストンバック1つを持って、お父さんが仕事でいない真っ昼間に家を飛び出し、そのまま夜行列車に乗って上京し、「東京宝映」の養成所の面接を受けると、見事、合格したのだそうです。

ちなみに、ビートきよしさんは、面接に合格した理由について、

東京宝映っていう養成所だったんですよ。面接ですから、色々役者さんがバーッといて、色々セリフとか言わされて。そしたら“あれ、あなたは山形なのになまりないですね”と。

本当になまりがなかったのよ。本当に俺東京行かなきゃいけないっていうんで、標準語一生懸命勉強してしゃべってたの

と、語っています。

「ビートきよしの若い頃(下積時代)はピンク映画も!ビートたけしとの出会いは?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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