慶応義塾大学2年生の時に、作曲家としての活動を始めると、以降、テレビ、映画、CMで、様々な作品のテーマ曲を作曲して数多くの名曲を生み出したほか、当時、日本ではほとんど知られていなかったシンセサイザーを使って制作・演奏したアルバムが、全米ビルボード1位になった、冨田勲(とみた いさお)さん。
今回は、そんな冨田勲さんの、若い頃から死去までの経歴を、代表作品を交えてご紹介します。また、最後にアルバムの一覧もご紹介します。

「冨田勲の生い立ちは?高校で作曲を始め大学時代にはコンクールで1位に!」からの続き
冨田勲は大学2年生の時にプロの作曲家として活動を開始していた
大学2年生の時、朝日新聞主催の全日本合唱連盟のコンクールで1位に選ばれた冨田勲さんは、合唱コンクールに作曲者として招かれ、同席したNHKやレコード会社の現場担当者から仕事の依頼が来るようになったそうですが、
作曲家として手掛けた作品は、
- スポーツ、教育(メルボルン五輪(1956年)女子体操の伴奏音楽、学校教材用レコード)
- CM音楽(森永製菓をはじめとする数々のコマーシャルソング)
- 映画(1965年「飢餓海峡」、1956年「警視庁物語シリーズ」、1974年「ノストラダムスの大予言」)
ほか、
東映動画「ガリバー宇宙旅行記」(1965年)や、円谷プロなどの特撮作品の音楽にも及んでおり、非常に幅広いジャンルで作曲しています。
また、冨田勲さんは、1954~1966年、初期のラジオ番組「立体音楽堂」も担当しているのですが、
冨田勲さんは、
中でも、ステレオ放送のラジオ番組「立体音楽堂」では、作曲やアレンジに夢中になりました。当時はまだスピーカーが一つというのが常識だったですから、まるで海の中にいるように音が広がって聞こえるのは新鮮な驚きで、音を両耳で聴く幸せをしみじみと感じましたね。
と、語っています。
冨田勲はNHK(大河ドラマ、きょうの料理、新日本紀行、現代の映像)のテーマ音楽を数多く手掛けていた
そんな冨田勲さんは、特に、NHKで、
- 1963年「花の生涯」
- 1969年「天と地と」
- 1972年「新平家物語」
- 1974年「勝海舟」
- 1983年「徳川家康」
と、大河ドラマ5作品(歴代最多タイ)の音楽を担当するほか、
- 1957年「きょうの料理」
- 1963~1982年「新日本紀行」
- 1964年「現代の映像」
など、現在も語り継がれているテーマ曲を数多く生み出しています。
冨田勲は33歳の時、アニメ「ジャングル大帝」のテーマ曲で手塚治虫に対しても考えを曲げなかった
また、冨田勲さんは、
- 1965年「ジャングル大帝」
- 1965年「新宝島」
- 1966年「展覧会の絵」
- 1967年「リボンの騎士」
- 1969年「どろろ」
- 1969年「千一夜物語」
と、手塚治虫さんのアニメ作品でもテーマ音楽を手掛けているのですが、
1965年、33歳の時に制作したアニメ「ジャングル大帝」では、
手塚治虫さんは、
ディズニーに負けたくない
と、並々ならぬ意気込みで臨んでおり、
打ち合わせの際、自らピアノでチャイコフスキーの「交響曲第4番」の一部を弾き、
こういう雰囲気の曲にしてほしい
と、冨田勲さんに直接リクエストしてきたそうで、
冨田勲さんが、主人公レオの雄たけびを音楽で表現しようと考え、オクターブと一音を跳躍する独特のメロディを書き上げると、出来上がった曲は、周囲のスタッフからは絶賛されたそうですが、
手塚治虫さんだけは納得せず、
そんなメロディでは視聴者が歌えない。歌えない曲は世の中に浸透しないから、直してほしい
と、強く修正を迫ってきたといいます。
ただ、冨田勲さんは、
レオの咆哮(ほうこう)を表現するには、これしかない
決して歌いにくいメロディではない
と、確信していたことから、引き下がらず、
手塚治虫さんに対しては、
考えます
とだけ言い続け、あえて修正しないまま、
考えたけれど、これ以上のものはできなかった
という体で、オンエアの日を迎えたそうで、そのまま世に送り出したのだそうです。
ただ、後日、手塚治虫さんも、最終的にはその仕上がりに満足しているらしいと、人づてに聞いたそうで、
冨田勲さんは、
ようやく自分の意図を理解してもらえたのかな
と、思ったといいます。
冨田勲は42歳の時、シンセサイザーで作ったアルバムが全米ビルボード(クラシカル・チャート)で1位になっていた
そんな冨田勲さんは、1974年4月(冨田勲さん42歳)、シンセサイザーで制作・演奏したアルバム「Snowflakes Are Dancing(日本でのタイトルは「月の光」)」をリリースすると、ビルボード(クラシカル・チャート)初登場2位で、最終的には1位に輝く大ヒットを記録し、
翌1975年2月にリリースした、同じくシンセサイザーで制作・演奏したアルバム「Pictures at an Exhibition(日本でのタイトルは「展覧会の絵」)」もビルボード(クラシカル・チャート)で1位に輝く大ヒットを記録しています。
1974年4月に全米でリリースしたアルバム「Snowflakes Are Dancing(月の光)」が、ビルボード誌のクラシカル・チャートで1位を獲得し、たちまち、注目を集めた、冨田勲(とみた いさお)さん。 今回は、な …
冨田勲が53歳~54歳の時には”立体音響”を追求し音のパノラマ”サウンド・クラウド”を成功させていた
その後も、冨田勲さんは、次々とアルバムをリリースするとヒットを飛ばしているのですが、その一方で、1980年代前半には、”立体音響”を追求しています。
というのも、シンセサイザーは、生楽器と異なり、”演奏者の肉体的な存在感”が薄くなりがちだったことから、冨田勲さんは、その音に圧倒的なリアリティと存在感を与えるため、前後左右から音に包まれる「4チャンネルステレオ」にいち早く着目したのでした。
ただ、当時のリスニング環境では「4チャンネル」は十分に普及せず、規格としては衰退。
そこで、冨田勲さんは、もっとスケールの大きいことをやろうと、大空を使った”サウンド・クラウド(音の雲)”を考え出したそうで、
1984年、オーストリアのリンツ市で、ドナウ川を舞台に、川の両岸、水上に浮かぶ船、さらには上空のヘリコプターまでもを”スピーカー”とし、空から音が降り注ぐという超立体音響を構成すると、この”音のパノラマ”は、観客を包み込み、深い感動を与えたのでした。
(このイベントは、1986年にも、ニューヨークやシドニーで開催されているのですが、いずれも成功を収めています)
ちなみに、この壮大なプロジェクトは映像としても記録されているのですが、
冨田勲さんは、DVDなどで作品化することには否定的だったそうで、
リンツでもニューヨークでもシドニーでもいろんなエピソードがあります。映像として残っていますが、DVDなどで出すことは考えていません。ビデオはあくまでも記録であって、紙芝居になってしまいます。やっぱりその場で聴かないとだめです。
と、語っています。
冨田勲は66歳の時に「源氏物語幻想交響絵巻」を作曲し自ら指揮していた
そんな冨田勲さんは、1980年代後半からは、シンセサイザーを加えたオーケストラによるテレビドラマや映画のための作品を精力的に発表するほか、
1998年、66歳の時には、日本の伝統楽器と西洋オーケストラとシンセサイザーによる「源氏物語幻想交響絵巻」を作曲すると、冨田勲さん自身の指揮により、東京、ロサンゼルス、ロンドンで公演しており、
冨田勲さんは、
「源氏物語」はもともとやってみたかったテーマでした。これは壮大な絵巻きです。平和で、兵力がなくても外敵に襲われなかった時代。こんな時代はない。どこかの惑星の話という感じがします。
そうかと思えば、現代にも繋がるところがあったりするからおもしろい。ホリヒロシさんの人形との共演で、視覚的にも素晴らしいものになったと思います。
愛知万博用に、今、新しいエピソードを書き加えています。生き霊になった六条の御息所はオカルト的で怖いというイメージですが、よく読むとそうではないんですね。表と裏の葛藤というか、表は怖いけれど裏にある自責の念。ここは非常に表現が難しいところです。
サラウンドで生き霊がホールの中を浮遊する、そこが恐ろしいですよ。“平安サラウンド”と言っているんですが、四方八方からリスナーが平安朝の雰囲気に包まれるという・・・。今回はそこが山場で、ぜひ見て、聴いてほしいところです。
と、語っています。
冨田勲の死因は?
その後も、冨田勲さんは、精力的に活動し、2016年11月に上演を予定していた新作「ドクター・コッペリウス」の創作に励んでいたそうですが・・・
同年5月5日、自宅で、昼食にうなぎを食べ、レコード会社「日本コロムビア」の関係者と打ち合わせをした、その1時間後、突然倒れ、東京都立広尾病院に救急搬送されるも、回復せず、慢性心不全により、14時51分、84歳で他界されたのでした。
(打ち合わせからたった3時間後の逝去だったそうです)
ちなみに、長男の冨田勝氏は、
今まで父の音楽を愛してくださったすべての方々に厚く御礼申し上げます。
父はドクター・コッペリウスを完成させたいという並々ならぬ強い思いを持っていて、倒れる一時間前までも楽しそうにそのイベントの打ち合わせをしていました。「11月までは死ねなくなっちゃったよ」と笑って言っていました。
父はもともと低血圧なので、立ちくらみのように意識が一時的に飛ぶことはよくありました。今回倒れた時も、徐々に意識が薄れていったと思われますので、本人はまた意識が戻るつもりでいると思います。
私は父にあれしろこれしろと言われたことは一度もありませんでした。既製の常識にとらわれずに、信じた道を突き進む父の背中が、私の人生においていつも背中を押してくれました。
勲は小さな子供が大好きです、4人の孫と5人のひ孫に囲まれてつい先日も大家族で84歳の誕生日パーティをしたばかりでした。
父の作品と志は、亡くなることはありません。これからも冨田勲をどうぞよろしくお願い致します。
長男 冨田勝(慶應義塾大学教授)
と、コメントを発表しており、
冨田勲さんが、最後まで精力的に音楽活動をしていたことが分かります。
冨田勲のアルバム
それでは、最後に、冨田勲さんのアルバムをご紹介しましょう。
- 1972年「Switched On Rock」
- 1974年「月の光」
- 1975年「展覧会の絵」
- 1975年「火の鳥」
- 1976年「惑星」
- 1977年「宇宙幻想」
- 1978年「バミューダ・トライアングル」
- 1979年「ダフニスとクロエ」
- 1982年「大峡谷」
- 1984年「ドーン・コーラス」
- 1985年「マインド・オブ・ザ・ユニバース」※リンツ(オーストリア)での屋外イベント実況録音
- 1988年「バック・トゥ・ジ・アース」※ニューヨークでのサウンドクラウド・ライブ録音
- 1992年「東方よりの風」
- 1994年「ナスカ幻想」
- 1996年「バッハ・ファンタジー」
- 1999年「冨田勲:源氏物語交響絵巻 東京シティpo.他」
- 2000年「源氏物語幻想交響絵巻」
- 2008年「響」
- 2011年「PLANET ZERO」
- 2012年「イーハトーヴ交響曲」
- 2015年「スペース・ファンタジー」
- 2016年「オホーツク幻想」
- 2017年「ドクター・コッペリウス」※冨田勲さんの遺作で、他界後リリースされています。
と、数多くのアルバムをリリースしています。
「冨田勲が若い頃はシンセサイザーによる「月の光」「展覧会の絵」が全米1位!」に続く
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1974年4月に全米でリリースしたアルバム「Snowflakes Are Dancing(月の光)」が、ビルボード誌のクラシカル・チャートで1位を獲得し、たちまち、注目を集めた、冨田勲(とみた いさお)さん。 今回は、な …
































