1974年4月に全米でリリースしたアルバム「Snowflakes Are Dancing(月の光)」が、ビルボード誌のクラシカル・チャートで1位を獲得し、たちまち、注目を集めた、冨田勲(とみた いさお)さん。
今回は、なぜ、冨田勲さんが、日本に滞在していたにもかかわらず、日本ではほとんど知られていなかった、アメリカの最新機器であるシンセサイザーで、全米1位という快挙を遂げたかについてご紹介します。

「【画像】冨田勲の若い頃から死去までの代表作品やアルバムは?死因は?」からの続き
冨田勲は20代~30代の頃、”理想の音を作る”ことに技術的にも時間的にも限界を感じていた
作曲家として、NHK大河ドラマ、映画、CM、アニメほか、幅広いジャンルで数多くの名曲を世に送り出していた冨田勲さんですが、プロとして活動を続ける中で、ある大きな悩みを抱くようになったといいます。
それは、
作曲家は画家のようにはいかない
という悩みだったそうで、
例えば、画家であれば、自分のイメージに合わせて、色を混ぜて独自の色彩を生み出すことができ、たとえ輪郭が曖昧でも、色合いだけで感情を表現することさえ可能なのに対し、
(つまり、この世にない新しい色を無限に作り出せる)
音楽はというと、クラリネットは誰が吹いてもクラリネットの音に変わりなく、ハーモニーによって多少の工夫はできても、楽器そのものが持つ音色を変えることはできず、もどかしさを感じていたのだそうです。
実際、冨田勲さんは、自分の頭の中にある”理想の音色”を実現するため、録音技師にフィルター加工や周波数の変更を依頼することもあったそうですが、
言葉で音のイメージを伝え、相手に正確に理解してもらうには、膨大な時間と労力が必要だったといいます。
また、オーケストラという生の演奏から自分がイメージする音色をつくり出すには、演奏家が完璧な演奏をしたうえで、冨田勲さんのイメージと一致させる必要があり、
たとえ、演奏家の演奏が技術的には完璧な演奏であっても、冨田勲さんのイメージと異なる場合、何度も録り直しを命じなければならず、現場の空気が悪くなったそうで、
演奏家に、
ちゃんと演奏してるのに、やり直しさせやがって
と、言われたこともあったといいます。
だからといって、録音後の加工により、自分の演奏が原型を留めないほど変えられたと知れば、演奏家は人格を否定されたようなショックを受けるかもしれず、
冨田勲さんは、大きな精神的負担を強いられ、
演奏者の人格を尊重しながら、生の演奏で、自分のイメージを音にしたい
と、切実に渇望していたのだそうです。
冨田勲は37歳の時にシンセサイザーに出会っていた
そんな中、冨田勲さんは、1969年、37歳の時、大阪万博の東芝IHIパビリオンで流す音楽を録音するため、大阪に3か月間滞在していたそうですが、
その際、訪れた輸入レコード店で、シンセサイザーだけで演奏をした世界初のアルバム「スイッチト・オン・バッハ」(ウォルター・カーロス(現在はウェンディ・カルロス))というレコードを見つけたそうで、
早速、購入して聴いてみたところ、
これなら好みの音色を自在に出せるのではないか
と、発信音だけで作ったシンセサイザーの音楽こそ、自身が求めているものではないかと直感したといいます。
冨田勲は39歳の時、「モーグシンセサイザー」の言葉を頼りに手を尽くしてシンセサイザーを個人輸入していた
そこで、冨田勲さんは、シンセサイザーが欲しいと思ったそうですが、そのアルバムには、「モーグシンセサイザー」(MOOG III-C) とだけしか記載されておらず、制作者がモーグ博士ということしか分からなかったそうで、
「モーグシンセサイザー」の言葉だけを頼りに、様々な手を尽くして探すと、ようやく、アメリカのバッファローに、このシンセサイザーを製作したモーグ博士の工場があることが分かり、最終的には、モーグ博士と手紙でやり取りすることもできたそうで、
1971年秋、シンセサイザーを、1台、個人購入することができたのだそうです。
冨田勲はシンセサイザーを楽器と認めてもらえず羽田空港の税関で1ヶ月以上も持ち帰ることができなかった
とはいえ、当時は1ドル360円だったことから、このシンセサイザーは1000万円もしたうえ、
(冨田勲さんは、計算があって購入した訳ではなく、どうしても欲しいだけで、借金して購入したそうで、かなりの冒険だったそうです)
羽田空港の税関では、「(楽器とは)何か違うもの」と疑われて(軍事機器と間違えられたという話も)、1ヶ月以上も倉庫に保管され、足止めされてしまったそうで、
(もちろん、冨田勲さんは、シンセサイザーを、「楽器」ということで輸入しているのですが、当時、日本では、シンセサイザーがほとんど認知されていなかったため怪しまれたのだそうです)
最終的には、楽器であることを証明するため、モーグ博士から、キース・エマーソンさんがシンセサイザーを演奏している写真を送ってもらい、保管料を支払って、ようやく、持ち帰ることができたのだそうです。
冨田勲は当初シンセサイザーをとにかく面倒くさい装置だと思っていた
こうして、冨田勲さんは、やっとのことでシンセサイザーを手に入れたそうですが、シンセサイザーは、一見すると、電話の交換台か、飛行機の操縦室のような外見をしており、とにかく面倒くさい装置だったといいます。
というのも、シンセサイザーは、”楽器”ではなく、単に音を構築するための道具(音出し機)に過ぎなかったそうで、
冨田勲さんは、
ノコギリ、ノミ、カンナ、カナヅチなんかが入った大工道具の道具箱みたいなもので、道具をどう使うかは使う職人が決めるんです
と、語っています。

冨田勲は当初シンセサイザーで音楽を構築するのに苦労していた
また、シンセサイザーは、ボリュームや音階の調整はすべて手動で、音色を保存するメモリー機能などもなく、一度作った音を再現するには、ツマミの位置を「だいたいこのへん」とメモし、自分の勘と感覚を研ぎ澄ませて調整していくしかなかったといいます。
(説明書らしい説明書もなかったそうで、冨田勲さんは、手探りでシンセサイザーを理解していくしかなかったのだそうです)
しかも、冨田勲さんは、当時の流行だった”電子的なピコピコ音”が嫌いで、あくまで、”ナチュラルな響き”を目指していたことから、いかにして機械から出る無機質な音を隠し、自分のイメージする色彩豊かな世界に近づけるかに苦労したそうで、
(効果音として使うのは簡単でも、それを一曲の”音楽”として構築するのは、至難の業だったそうです)
冨田勲さんは、
CM音楽などで効果音的な使い方は簡単だったけど、音楽的にどう使うかは本当にたいへんでしたね。でもどうしてもこれでアルバムを出したかった。稼がないことには償却できませんから。
と、語っています。

冨田勲はシンセサイザーでアルバムを制作するため、作曲の仕事を断っていた
そんな中、冨田勲さんは、生活の糧であった作曲の仕事を断らざるを得なくなっていたそうで、
(シンセサイザーが役に立たなければ、ただの1000万円の鉄くずになってしまうため、「なんとかしなくては」と無我夢中だったそうです)
同じ人からの仕事の依頼を2回断れば、3回目はまず来ない、ということを知りながらも、とにかく、時間がなく、先も見えない中、シンセサイザーの前に座り続けたのだそうです。
冨田勲は1年4ヶ月かけてシンセサイザーでアルバムを完成させるもレコード会社には受け入れられなかった
こうして、来る日も来る日も、装置と格闘していたという冨田勲さんですが、
ある時、変化が訪れたそうで、糸口がひとつ解けると、バラバラだった機器の繋がりが理解できるようになり、頭の中に”音の設計図”が組み上がっていったそうで、
あの音を出すには、こう繋げばいい
と、ついにシンセサイザーを理解することができたのだそうです。
そして、早速、アルバム制作に取り掛かると、プールサイドに置くような折り畳みの椅子で仮眠をとり、起きてはまた作業をするという毎日を重ね、1年4ヶ月後、ついに、アルバムが完成したのだそうです。
そこで、かねてよりアプローチをかけていたレコード会社にデモテープを持っていったそうですが・・・
(若いディレクターが「面白いから、ぜひ自分のところで出したい」と言ってくれていたそうで、冨田勲さんは、出来上がったら、さぞかし引く手あまたになるとだろうと考えていたそうですが)
営業サイドには全く受け入れられず、
どのジャンルかわからないし売れるかどうか分からない
と、言われてしまったのだそうです。
冨田勲はシンセサイザーで制作したアルバムのデモテープをアメリカの「RCAレコード」に売り込んでいた
実際、冨田勲さんがシンセサイザーに興味を持つきっかけとなった「スイッチト・オン・バッハ」は、レコード店では、効果音の棚に並べられていたそうで、
冨田勲さんは、
このままではアルバムが出ても「懐かしのSL」の横なんかに置かれてしまう。それは1年4カ月と1000万円をかけてつくった作品にふさわしい場所じゃない
と、思ったそうで、
必死になって考えた結果、渡米し、「スイッチト・オン・バッハ」を出した「RCAレコード」の担当者に直接聴いてもらうことを思いついたのだそうです。
そして、早速、作ったアルバムのデモテープを持って渡米したそうですが・・・
ニューヨークのヒルトンホテルに到着した際、フロントに貼られた世界地図を見て、衝撃を受けたといいます。
それは、日本の地図では日本が中央に位置しているのに対し、アメリカの地図で中央にあるのはニューヨークで、日本は、「ファーイースト(極東)」に過ぎないと感じ、
その地図を眺めながら、
おれはこんなところから持ってきて勝負しようとしている
と、異国の地で大きな不安に襲われたのだそうです。
しかし、当時の「モーグ・シンセサイザー」はアメリカでも最先端の楽器で、それを見事に操る”東洋から来た者”に対し、現地のレコード会社は興味を抱いたそうで、
冨田勲さんの音源は、最高の設備が整った試聴室でじっくりと聴いてもらえることになったといいます。
(冨田勲さんは、渡米する際、ちゃんと聴いてくれるか分からず不安だったため、念のため、オープンリールとカセットの両方を持っていっていたそうです)
そして、張り詰めた空気の中、固唾(かたず)を呑んで結果を待つ冨田勲さんの前に、「RCAレコード」の担当者であるピーター・マンヴェス氏がやって来ると、
おい、ビール飲みに行こう
と、言ってくれたそうで、
その瞬間、冨田勲さんは、
これはいい話になる
と、確信したのだそうです。
冨田勲は42歳の時にアルバム「Snowflakes Are Dancing(月の光)」を全米でリリースするとビルボード誌のクラシックチャートで1位を獲得していた
こうして、冨田勲さんは、「RCAレコード」とレコードを発売する契約を結び、1974年4月(冨田勲さん42歳)、アルバム「Snowflakes Are Dancing」を全米でリリースすると・・・
ビルボード誌のクラシカル・チャートで、初登場2位となる大ヒットとなり、最終的には、日本人初の1位となり、冨田勲さんは、たちまち、注目を集めたのでした。
また、1975年3月に開催された「第17回グラミー賞」では、
- 「Album of the Year – Classical」
- 「Best Classical Performance Instrumental Soloist Or Soloists (Without Orchestra)」
- 「Best Engineered Recording – Classical」
の3部門でノミネートされるほか、
「NARM(National Association Of Record Merchandiserers, 全米レコード販売者協会)」の「1974年最優秀クラシカル・レコード」に選ばれるという、快挙を遂げたのでした。
(日本では、1974年8月25日、「月の光/ドビュッシーによるメルヘンの世界」のタイトルでリリースされています)
冨田勲はシンセサイザーでの2ndアルバム「Pictures at an Exhibition(展覧会の絵)」でも全米ビルボード1位を獲得していた
ちなみに、冨田勲さんは、デモテープが完成するまで、ほかの仕事を断り続けていたことから、この頃は、経済的に厳しい状態にあったそうで、
契約の際には、原盤権を「RCAレコード」に買い取ってもらうか、レコードが1枚売れるごとに印税を支払ってもらうか、かなり迷ったそうですが、
(買取では相当な金額を提示されたそうです)
悩み抜いた末に、レコードが1枚売れるごとに印税を支払ってもらう契約を選択し、原盤権は手放さなかったそうで、
冨田勲さんは、
保障は全然ないし経済的にも厳しかったけれど、これは自分への勝負ですよ。励みにもなりますしね。
と、語っています。
また、冨田勲さんは、1975年2月25日にリリースした2枚目のアルバム「Pictures at an Exhibition(日本でのタイトルは「展覧会の絵」)」も、1975年8月16日付けのビルボード(クラシカル・チャート)で1位になる大ヒットを飛ばしています。
「冨田勲は初音ミクを宮沢賢治作品が題材のイーハトーヴ交響曲に使っていた!」に続く
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