1980年代、トレンディドラマの常連俳優として活躍すると、「不倫は文化」発言や、3度の結婚&離婚など、お騒がせタレントとして、たびたび、ゴシップ誌を賑わせてきた、石田純一(いしだ じゅんいち)さん。今回は、そんな石田さんのルーツである、両親と祖父母についてご紹介します。

Sponsored Link

年齢は?出身は?身長は?本名は?

石田さんは、1954年1月14日生まれ、
東京都目黒区のご出身、

身長177センチ、

血液型はA型、

学歴は、
目黒区立不動小学校
⇒目黒区立第四中学校
⇒東京都立青山高等学校
⇒早稲田大学商学部中退
(中学校と高校では野球部に所属。高校ではエースで4番だったそうです)

趣味は、
ゴルフ、ピアノ、

ちなみに、本名は「石田 太郎(いしだ たろう)」、デビュー当時の芸名は「石田 純」です。


高校時代の石田さん。

石田家本家の先祖は紀州徳川家に仕える武士

石田さんの(父方の)家系は石田家の分家なのですが、本家の方はというと、現在も大阪・富田林に立派なお屋敷があり、先祖を描いた掛け軸には、石田重右衛門という「紀州徳川家」に仕える武士が描かれているそうで、

重右衛門は、「大阪夏の陣」の後、庄屋という形で富田林を治めるよう指示を受け、派遣されたと言われているそうです。

(ただ、本家と分家である石田さんの家系は交流が途絶えてしまっているそうです)

祖父は中外商業新報(日経新聞)の政治記者

石田さんのおじいさんは石田武太郎(いしだ たけたろう)さんというそうで、大阪・富田林にある石田家の分家に生まれると、1912年に上京し、早稲田大学政治経済学科に入学されたそうですが、

武太郎さんは、国会議員を招いて時事問題について話し合う、「疑国会」と呼ばれる討論会に熱中していたそうで、早稲田大学100年史に、当時の有名学生の一人として書き残されているほど、優秀な学生だったようです。

(当時、早稲田大学の総長は大隈重信で、教授には坪内逍遥などがいたそうです)

そんな武太郎さんは、早稲田大学卒業後は、「中外商業新報」(現・日本経済新聞社)に入社すると、政治部の記者として働き始め、まもなく、電話交換手のきよさんと結婚。3人の子どもに恵まれます。

そして、1922年、31歳の時には、「ワシントン会議」の特派員に抜擢。その後、そのままアメリカに残り、特派員生活を2年間送った後、帰国すると、「中外商業新報」(現・日本経済新聞社)の政治部長となられ、後に編集局長にまで昇進されたのですが・・・

(※「ワシントン会議」とは、第一次世界大戦後、米ウォレン・ハーディング大統領の提唱で、ワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議)

42歳の時、新聞記者を辞め、出身地の大阪から衆議院選挙に立候補すると、落選。

(犬養毅が総裁の「与党立憲政友会」に所属されたそうです)

これで、武太郎さんは財産のほとんどを失ってしまうと、追い打ちをかけるように「肝硬変」を発症。それから2年後、44歳という若さで他界されています。

両親は?

武太郎さんの他界後、妻のきよさん(石田さんのおばあちゃん)は助産師の資格を取り、3人の子どもを養われたそうですが、暮らしは貧しく、節約のため、勉強する時の電気もためらわれたそうです。

そんな中、3人の子どものうち、後に石田さんのお父さんになる武(たけし)さんは、アメリカ文化に興味を持っていたことから、アメリカの牧場で働くべく陸軍の獣医を目指し、1943年、麻布獣医専門学校に入学されるのですが、戦時中は、学徒動員で軍需兵器を造る軍需工場で働かされたそうで、

そこで、同じく勤労動員として働いていた、静枝さんという女学生(石田さんのお母さん)と出会われ、交際に発展したそうです。

その後、武さんは、麻布獣医専門学校を卒業するのですが、終戦したことで多くの獣医が復員したため、獣医にはなれず、GHQの在日米軍基地で家畜の世話をして暮らしたそうで、

そんな時、アメリカに行くために勉強していた英語が活かせると、新聞に載っていた「NHK報道員(アナウンサー)募集」の広告を見つけたそうで、採用試験を受けると、高い競争倍率の中、見事合格。そして、就職して2ヶ月後には静枝さんと結婚されたのでした。

(ただ、その後、静枝さんは、原爆投下後の広島に原爆の後片付けに行かされ、残留放射線で被爆。そのせいで「白血病」となり、長年の闘病の末、2007年、「白血病」のため他界されています。)

Sponsored Link

父親はNHKの有名アナウンサー

こうして、NHKにアナウンサーとして入社された武さんは、スポーツの実況を担当することになり、広島に赴任するのですが、ちょうどその頃、プロ野球球団「広島カープ」が創設されたばかりで、その活躍ぶりに市民が熱狂している姿を目の当たりにしたそうで、

もともと、スポーツは詳しくなかったものの、周囲の期待に答えるため、必死に勉強し、選手のデータをすべて頭に叩き込んで実況をされると、

そんな一生懸命なところが認められ、その後も、「ケネディ大統領暗殺事件」(1963)や、「東京オリンピック」(1964)で陸上の実況を担当されるなど、花形記者として活躍。

さらに、1969年には、「アポロ11号月面着陸」の生中継をする特別番組の実況という、大きな仕事が舞い込みます。

そして、いよいよ、1969年7月21日午前0時の生放送で、武さんは、ヒューストンから現地の様子をリポートされると、知り合いの宇宙飛行士、ユージン・サーナンさんを急遽スタジオに招き入れるなど、思いがけない演出の効果で、深夜放送だったにもかかわらず、なんと、最高視聴率68.3%という驚異的な数字を叩き出し、一躍脚光を浴びたのでした。

(武さんは、番組準備期間、アメリカで取材を重ねていたそうで、その過程で、ユージン・サーナンさんと信頼関係を築かれていたのでした)

「石田純一の生い立ちは?ぼんぼん?21歳で学生結婚していた!」に続く

Sponsored Link