坂本九さんに作詞した「上を向いて歩こう」が、日本のみならず、世界中で大ヒットとなった、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、実は、この「上を向いて歩こう」には、永さんの、ある想いが込められていたといいます。
「永六輔が作詞した「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」となった理由とは?」からの続き
安保闘争に熱中していた
永さんは、「上を向いて歩こう」の歌詞が出来た背景には、大きな二つの出来事があったと語っています。
当時、永さんは、三木鶏郎さんに任せられていた「冗談工房」の社長を辞めてフリーとなり、1960年には、安保闘争に連日のように参加するようになっていたそうですが、
(※「安保闘争」とは、日米安全保障条約の改定に反対して行われた学生や労働者等が参加した大規模デモ運動)
そんな中、構成を担当していた、音楽バラエティ番組「光子の窓」の企画会議をさぼってしまったそうで、
担当のディレクターから、
仕事とデモと、どっちが大切なのか
と、聞かれ、
思わず、
デモです
と、答えるほど、安保闘争にのめり込んでいたそうです。
(その後、永さんは「光子の窓」を降板させられたそうです)
日米安全保障条約が成立し言いようのない挫折感に襲われていた
その後、1960年2月には、デモに参加していた東京大学の女子学生が、国会前で機動隊とデモの学生達の衝突に巻き込まれ圧死するという事故が起き、このことがきっかけで、デモの参加者はますます膨れ上がり、激しさを増していったそうですが・・・
同年6月には、日米安全保障条約が成立したそうで、永さんは、「安保闘争」に参加することで、世の中が変わると思っていただけに、言葉では言い表せないほどの挫折感に襲われたのだそうです。
国会議員の浅沼稲次郎が右翼の少年に刺殺され衝撃を受けていた
また、同年10月には、追い打ちをかけるように、永さんが慕っていた、国会議員の浅沼稲次郎氏が、日比谷公会堂の壇上で演説中、公衆の面前で、17歳の右翼の少年に刺殺されるという事件が起こったそうで、
永さんは、著書「永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」」で、
鎮魂の祈りと挫折の苦さ、それでも生き続けるという気持ちで『上を向いて歩こう』という詞をつくったんです。
と、綴っています。
「上を向いて歩こう」は失恋ソングだった?
一方、「上を向いて歩こう」は失恋ソングだったのでは、との話もあるようです。
というのも、歌手で女優の中村メイコさんによると、永さん、中村さん、作曲家の神津善行さんの3人は、三木鶏郎さんの「トリロー工房」で知り合った友人同士だったそうですが、
中村さんが、作曲家の神津善行さんと結婚することが決まったことを永さんに伝えると、永さんは(中村さんが好きだったようで)涙を流したそうで、中村さんは、どうしていいか分からず、慌てて公衆電話から、お父さん(ユーモア作家の中村正常さん)に電話をして相談すると、
『上を向いて帰りたまえ』 と 伝えたまえ。『涙がこぼれないように』とね
と、言われ、その言葉をそのまま永さんに伝えたそうで、
中村さんは、この時の言葉が永さんの頭のどこかに残っていて、それが、「上を向いて歩こう」の歌詞に繋がっていったのかもしれないと語っているのです。
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