「ビルマの竪琴」「野火」「弟」などの映画や、「木枯し紋次郎」などのテレビドラマ、大原麗子さん出演のサントリーウィスキーのCMなどを手がけて人気を博した、映画監督の市川崑(いちかわ こん)さんですが、実は、もともとは、ウォルト・ディズニーのアニメに憧れ、アニメーターとして映画界に入られたのだそうです。
年齢は?出身は?本名は?改名していた?
市川さんは、1915年11月20日生まれ、
三重県宇治山田市(現・伊勢市)のご出身、
学歴は、
市岡商業学校卒業、
ちなみに、「市川崑」は本名ですが、もともとは「市川儀一」で、成人してから「市川崑」に改名されたそうです。
(改名の理由は、漫画家の清水崑さんのファンだったからという説と、姓名判断に凝っていた伯父さんの勧めからという2説があります)
また、趣味はタバコで、1日4箱100本も吸う愛煙家だったそうですが、吉永小百合さんに、「からだに悪いからやめたほうがいい」と注意されてから禁煙されたのだとか。
生まれて間もなく父親が他界
市川さんは、呉服問屋を営むお父さんのもと、4人姉弟の末っ子(長男)として誕生すると、生まれて間もなくお父さんが他界。
そのせいか、家業が傾き、4歳の時には、お母さんとともに伯母さん(2番目のお姉さんという説あり)の住む大阪市九条町の家に転居すると、小学生の時には、さらに、大阪市天満町に住む3番目の姉夫婦の家に移り住まれます。
その後、市川さんは成長し、商業学校(中学か高校かは不明)に進学するのですが、「脊椎カリエス」と診断され、2年で中退。静養のため、長野県篠ノ井町の親類宅に移り住まれたそうです。
(後に、「脊椎カリエス」は誤診だったことが判明し、大阪に戻られています)
「J.O.スタヂオ」にアニメーターとして入社
そんな市川さんは、幼い頃から絵を描くことが好きで、静養中も毎日のように絵を描いて過ごし、画家を志していたそうですが、当時、画家は財産がないとなれなかったため、仕方なくあきらめることに。
ただ、少年時代、ウォルト・ディズニーの短編アニメーションシリーズ「シリー・シンフォニー」(1929年)や伊丹万作監督の「国士無双」(1932年)を見て感動したことから、映画への道を志すようになると、
1933年、18歳の時、親戚のつてを頼って、発足したばかりだった京都の「J.O.スタヂオ」(後の東宝京都撮影所)に入社。
トーキー漫画部に所属し、アニメ「玩具箱」シリーズの下絵描きからスタートすると、「ミッキー・マウス」や「シリー・シンフォニー」のフィルムを借りて、一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学ばれたそうです。
「花より團子シリーズ」を手掛ける
そして、1934年には、「J.O.スタヂオ」で、少年侍・団子之助が活躍する「花より團子シリーズ」を手がけられ、
翌年の1935年、「花より團子シリーズ」の第3話「弱虫珍選組(よわむしちんせんぐみ)」では、「市川義一(本名)」でクレジットされています。(中野孝夫さん、八住紫郎さん、宮崎和夫さんとの共同作品)
「弱虫珍選組」のフィルムがアメリカで発見される
ちなみに、この「弱虫珍選組」のフィルム、長らく所在が不明だったのですが、2014年、アメリカの映画芸術科学アカデミーが所蔵し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で保管されていたことが分かり、話題となりました。
内容はというと、團子之助が悪者から女性を助ける物語がコメディタッチに描かれているそうですが(5分)、團子之助の造形には、市川さんが映画監督を目指すきっかけとなった、ディズニーアニメの影響が見られます。
「市川崑監督はビルマの竪琴で名監督の仲間入りをしていた!」に続く
「花より團子シリーズ」の3作目「弱虫珍選組」(1935)より。