1950~1960年代、ファッションモデルや女優として人気を博すと、その後は、「夜のヒットスタジオ」「3時のあなた」「料理天国」などで司会者として活躍し、女性メイン司会者の草分け的存在となった、芳村真理(よしむら まり)さん。今回は、そんな芳村さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。

Sponsored Link

年齢は?出身は?身長は?本名は?芸名の由来は?

芳村さんは1935年4月3日生まれ、
東京都中央区日本橋芳町の出身、

身長160センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
宮城教育大学附属中学校
⇒東京都立西高等学校卒業

趣味は、指輪作り、豚グッズ収集(300個以上所有)、旅行、

ちなみに、本名は、「大伴稲(おおとも いね)」(旧姓は吉村)で、芸名の「芳村」は、旧姓の「吉村」の「吉」を出身地である日本橋・芳町の「芳」に替えたものだそうです。

また、お兄さんは、元「東京新聞」社会部の記者で、末(3番目)の妹は、女優の吉村実子さんです。

中学時代の疎開先での暮らしが原点

芳村さんは、実家が農家で、サラリーマンのお父さんと、小唄と三味線の師匠のお母さんのもと、4人兄弟(兄1人と妹3人)の長女として誕生すると、幼い頃から親代わりになって、妹たちの面倒をみていたそうです。(2番目の妹さんは30代で他界されています)

また、戦時中の中学生の時には、宮城県石巻市に疎開したそうで、そこは本当に何もなく、大変なことも多かったそうですが、田んぼのツクシやセリをつんで食べるほか、青い空や太陽のポカポカとしたぬくもりを全身に浴びたり、ネギ坊主の中にいるホタルを家に持ち帰り、夜、蚊帳の中で放して楽しんだりしていたそうで、

芳村さんは、後に、

戦争中に疎開していた宮城県石巻市での暮らしが私の原点としてある

と、語っており、70年以上経った現在も、疎開先での暮らしが忘れられないそうです。

地味な服しかない終戦直後に色のあるセーターを自作

そんな芳村さんは、中学生の頃、戦時中にもかかわらず、着物をきれいに着こなしていたお母さんの影響で、疎開先の宮城県でオシャレに目覚めたそうです。

ただ、終戦直後の日本では洋服が少なく、しかも、黒やグレーなど、単色で地味な服しかなかったことから、

こんなのオシャレじゃない。こんな退屈な色、着たくないわ。

と、思い、時代に逆らった服を作ることを思いついたそうで、

まず、持っていたたった一枚の生成りのセーターを糸に分解して、一部の糸をグレーに、残りをオレンジに染め、再びそれを編んで、グレーとオレンジのボーダーセーターを完成させたのだそうです。

Sponsored Link

反骨精神で独自のファッションを貫いていた

しかし、当時は、

女性はモンペをはいていればいい

女性の化粧は非国民

という、戦時中の考えが根強く残っていた時代だったため、芳村さんがそのセーターを着て学校へ行くと、女子生徒からは「かわいい!」と好評だったものの、男子生徒からは反感を食らってしまうことに。

それでも、芳村さんは、逆に自分のファッションを貫いたそうで、この時の反骨精神が、その後、女性の生き方を変えるファッションを生み出していくことになったのだそうです。

「芳村真理は高校時代ストッキングブームを巻き起こしていた!」に続く

Sponsored Link