1960年代、石原裕次郎さんと二枚看板で、「渡り鳥」シリーズや「旋風児」シリーズなど、数々の「日活」映画に主演し、日本映画の黄金時代を築いた、小林旭(こばやし あきら)さん。今回は、そんな小林さんの幼少期から「日活ニューフェイス」に合格するまでをご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?学歴は?
小林さんは、1938年11月3日生まれ、
東京都世田谷区のご出身、
身長180センチ、
体重98キロ、
血液型はAB型、
学歴は、
世田谷区立玉川小学校
⇒世田谷区立玉川中学校
⇒私立目黒高校(現・目黒学院高校)
⇒明治大学文学部中退
趣味は、ゴルフ、
特技は、柔道(5段)だそうです。
本名は?ニックネームの由来は?
ちなみに、「小林旭」は本名なのですが、1958年、初めての本格アクション映画「女を忘れろ」のポスターに、「青春を賭けた マイトガイ・アキラの新魅力」と記載されており、
これは、「ダイナマイトのような男」(「ダイナマイトが百五十屯」の爆発力がある)という意味での「マイトガイ」だったそうですが、以来、この「マイトガイ」がニックネームになったそうです。
「女を忘れろ」のポスターより。
少年時代から活発で正義感が強かった
さて、小林さんは、「東宝」「新東宝」で、文化映画の照明技師をしていたお父さんと、小唄・端唄の師匠だったお母さんのもと誕生すると、子どもの頃から活発で、
中学時代には、柔道、空手、弓道などのスポーツに取り組むほか(中学校には柔道部がなかったことから自ら設立したとのこと)、ケンカにも強く、弱いものいじめをする連中をやっつけるなど、クラスでは一目置かれる存在だったそうです。
幼少期の小林さんと両親。
子役&エキストラとして映画に出演
また、小林さんは、お父さんの影響で、子どもの頃から映画に興味を持ったそうで(特に、映画「ターザン」のジョニー・ワイズミュラーさんに憧れていたそうです)、
4歳の時には劇団「東童」に所属し、1944年、小学校1年生の時には、三越劇場の劇団公演「青い鳥」のチルチル役で初舞台を踏まれるほか、しばしば、映画のエキストラとしても出演されていたそうです。
「日活第3期ニューフェイス」に合格
そんな小林さんは、1954年、高校在学中に、「東童」の子役たちを「日活」へ引率した際、「日活」のプロデューサー・茂木了次さん(茂木さんは小林さんのお父さんの友達だったそうです)に声をかけられ、「日活」のエキストラとして出演すると、翌年の1955年も引き続きエキストラとして活動されていたそうですが、
そんなある日(1956年)、茂木さんが、小林家を訪れた際、
お宅の坊ちゃん、俳優になれるんじゃないかな
と、小林さんを正式にスカウトされたそうですが、
小林さんのお父さんが、
役者なんかになれっこねぇ
と、言ったことから、小林さんは、逆に発奮。
このことをきっかけに、小林さんは、「日活第3期ニューフェイス」に応募すると、見事合格。1956年、18歳の時、「日活第3期ニューフェイス」として、「日活」に入社されたのでした。
(学ランのまま面接に行き、少しセリフを読んだだけで合格したそうです)
「小林旭は昔「大部屋」時代に凄まじいイジメを受けていた!」に続く
左から3人目が小林さん。