インドネシア大統領に見初められたデヴィ夫人は、その後、大統領の愛人の一人から正式に大統領の第3夫人となり、絢爛豪華な生活を送るのですが、幸せな日々は束の間、次々と不幸に見舞われることになります。

「デヴィ夫人の元夫スカルノ大統領との出会いは?」からの続き

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スカルノ大統領からプロポーズされる

旧帝国ホテルでインドネシアのスカルノ大統領に見初められ、インドネシアに招待されたデヴィ夫人は、一念発起してインドネシア行きを決意すると、大統領が日本の歴史に詳しかったことや、お互いの貧しかった幼少時代を語り合ううちに、より親密になったそうで、

首都のジャカルタから専用のジェット機でバリ島の離宮に移動し、真っ赤な太陽が沈むのを眺めていた時、突然、大統領から、

私のインスピレーションとなり、力の源泉となって、私の人生の喜びとなってください。

と、プロポーズ。

これに対し、デヴィ夫人は、このような美しい言葉は、これからの人生でもう聞くことはできないのではないか、と思うほど心を打たれたそうで、

わたくしはこの偉大な大統領から選ばれたのだ。これはもう神の天啓なのだ。そして、この方に選ばれたのだから、全身全霊をもってこの方に尽くそう。

と、さらなる決意を固め、当初2週間の滞在予定が、ずっとインドネシアにとどまることとなったそうです。

大統領の愛人の一人から正式に大統領の第3夫人に

その後、デヴィ夫人は、しばらくは、大統領の愛人の一人として宮殿で過ごしたそうですが、お手伝いさん14人、庭師3人、護衛24人がつけられ、着替えは立っているだけですべてお手伝いさんがやってくれたうえ、宮殿にはデヴィ夫人の巨大な肖像画が飾られるなど、大統領の寵愛を一身に受けたそうで、

3年後の1959年、デヴィ夫人が22歳の時には、ついに結婚。

名前も、「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」と改め、正式に大統領夫人となったのでした。

(デヴィ夫人は4人の夫人のうちの第3夫人)


スカルノ大統領とデヴィ夫人。

マスコミに追い込まれ、母が他界、弟はガス自殺

しかし、そんな幸せな日々も束の間、同時期、日本では、インドネシアの大統領夫人となったデヴィ夫人を、

日本を捨てた売春婦

と揶揄(やゆ)し、国辱的な出来事として報道。

実家にはマスコミが大挙押し寄せ、執拗(しつよう)な取材攻撃を受けたことから、お母さんはとうとう体調を崩して他界。

さらには、お母さんの他界直後、実弟までが、マスコミの執拗な取材攻撃を苦に、アパートで「ガス自殺」をしたのでした。

このことを、後に、デヴィ夫人は、

母と弟を亡くした事は本当に無念だったし、弟を自殺からなんとかして救えなかったか、それは本当に私が一生十字架を背負うくらい苦しんだ事ですね。

と、語っています。

(デヴィ夫人は、悔恨の念から、ジャカルタの宮殿のひとつを、弟さんの名前である「八曾男(ヤソオ)」と名付けたそうです。(現在、この宮殿は軍事博物館となっています))

スカルノ大統領失脚~フランスへ亡命

そして、結婚6年目の1965年9月30日には、スカルノ大統領がクーデターにより失脚し、幽閉。

(代わってスハルト氏が大統領となり、以降20年にわたり、インドネシアを支配することになります)

身の危険を感じたデヴィ夫人は、1967年には、インドネシアの日本大使館に亡命を希望するのですが・・・

日本にとって、インドネシアから逃げてきた元大統領の妻を保護することは、新しい政権と対立することになるため、受け入れられず。

やむなく、デヴィ夫人は、亡命者に寛容なフランスに亡命したのでした。

(ただ、デヴィ夫人は、同年、人道的措置という理由から、日本への一時帰国を許され、日本で娘のカリーナさんを出産しています。)


娘のカリーナさんを抱く当時のデヴィ夫人。

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スカルノ元大統領が他界

ちなみに、スカルノ元大統領は、自宅で事実上、軟禁状態におかれ、1970年6月21日、失意の中、他界しているのですが、最後まで元大統領と寄り添い続けたのは、第2夫人だけで、その他の家族はみな亡命したそうです。

また、スカルノ大統領は遺書に、

2人が死ねば亡骸(なきがら)は一つのお墓に埋めよ、大きな木の根元に大きな自然石を置いてほしい、
私は永遠にデヴィと一緒にありたい。

と書いていたそうですが、

デヴィ夫人は、

スカルノ大統領が亡くなれば私も一緒に死のうと思ってましたから。

と言いつつも、

(娘の)カリーナが生まれて、娘のために後追いはしませんでしたが。

と思いとどまったのだそうです。

「デヴィ夫人は昔アランドロンと?フランス社交界では東洋の真珠?」に続く



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