1971年「愛は死んでも」でデビューを果たされるも、まったく売れなかった八代亜紀(やしろ あき)さん。しかし、1973年「なみだ恋」で大ヒットを記録すると、以降、順調にヒットを連発し、1979年「舟唄」、1980年「雨の慕情」の大ヒットで、ついに「演歌の女王」と呼ばれるまでになります。
「八代亜紀の若い頃はキャバレー?銀座クラブ?年齢は?血液型は?本名は?」からの続き
まったく売れずキャバレー周りの日々
こうして、八代さんは、1971年、
ファーストシングル「愛は死んでも」で、
レコードデビューを果たされるのですが・・・
「愛は死んでも」
予想に反してまったく売れず。
それでも八代さんは、これまで応援してくれた人に、
よくやった!と、言ってもらいたい一心で、
トランクの中にレコードをたくさんつめて夜行列車に乗り、
知らない街で降りては、地図を頼りにキャバレーを探して、
歌を歌ってレコードを売るという日々を送られたそうで、
(レコードは毎回完売したそうです)
重いトランクを引いていた為、
手は豆だらけになってしまったそうです。
(そのため、お客さんと握手するのが嫌だったそうです)
「なみだ恋」が大ヒット
すると、そんな努力が実ったのか、翌年の1972年、
オーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場されると、
あれよあれよと10週連続勝ち抜き、
見事、グランドチャンピオンに。
「全日本歌謡選手権」より。左から3人目が八代さん。
このことがきっかけとなり、
1973年2月にリリースした4枚目のシングル、
「なみだ恋」が120万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、
「なみだ恋」
以降も、
1973年6月「おんなの涙」
10月「女ごころ」
1974年1月「しのび恋」
5月「愛ひとすじ」
9月「愛の執念」
1975年1月「おんなの夢」
5月「ともしび」
9月「貴方につくします」
10月「愛していません」
1976年1月「花水仙」
5月「ふたりづれ」
7月「夢魔のブルース」
9月「もう一度逢いたい」
1977年2月「おんな港町」
9月「愛の終着駅」
など、女心を歌った曲で、
次々とヒットを飛ばされたのでした。
ちなみに、八代さんは、当時を振り返り、
逃げてたまるか、という気持ちで挑んでいましたね。
でも、若者なりにけじめはつけなければいけない、
という思いもありました。
「全日本歌謡選手権」は、10週勝ち抜いて初めてグランプリです。
80点以上取らないと勝ち抜けできず、
その点に達しなければ合格者がゼロになることもある。
こうなるともう、他人との戦いではないんです。
私は一応プロ歌手でしたが、アマチュアと同じ土俵に立ちますから、
ここで落ちたら救いがありません。
最後まで勝ち抜けなかったら「八代亜紀」を捨てる覚悟でした。
と、明かされています。
「舟唄」「雨の慕情」で「演歌の女王」の地位を確立
そして、1979年5月、初の男歌となる、
28枚目のシングル「舟唄」をリリースすると、
発売当初は売上が伸び悩んだものの、
この年の「紅白歌合戦」で大トリとして歌唱されたことがきっかけとなり、
年明けから売上がぐんぐん伸び、オリコン15位を記録するヒット。
「舟唄」
また、翌年の1980年には、4月にリリースした、
「雨の慕情」が「レコード大賞」を受賞するほか、
「雨の慕情」
2年連続で「紅白歌合戦」の大トリを務められ、
ついに、八代さんは、
「演歌の女王」と呼ばれるまでになったのでした。
ジャズ&ブルースも
以降、八代さんは、順調に歌手活動を続けられ、
2012年には、初のジャズアルバム「夜のアルバム」を発売されると、
世界75か国で同時配信され、日本はもちろん、
マレーシア、シンガポール、台湾、香港など、アジアを中心に大ヒット。
(2017年10月にも、ジャズアルバム第2弾「夜のつづき」
をリリースすると、これまたヒットを記録しています)
2015年には、初のブルースアルバム「哀歌 -aiuta-」
(寺岡呼人さんプロデュース)を発売されるなど、
演歌歌手という枠を超えた歌手活動をされており、
ブルースとは、あまりにも酷い扱いを受けてきた人間の魂だから、
今回のアルバムではそこを掘り下げてみたかったんです。
自分の家ではジャズが鳴り、父は浪曲を歌ってました。
そのジャズや浪曲が、私の中でブルースと呼応したんですね。
今回は、自分のルーツを掘り下げる作品にもなりました。
と、語っておられます。
絵画もプロ級
そんな八代さんは、歌手として成功を収められる一方で、
画家としても活躍されています。
実は、八代さんは、幼い頃からお絵かきが好きな少女で、
小・中学生の頃には、八代さんの描く漫画を、
クラスメートが楽しみに待っていたほど上手だったそうで、
そのうち、絵画にも興味を持つようになり、
歌手になってからも、どんなに忙しい時でも絵を描き続け、
気がついたら夜が明けていた、ということもしょっちゅうあったとか。
そして、1985年には、
銀座三越で初の個展を開催。
1988年には、フランスの、
「ル・サロン展」に出展して初入選を果たすと、
以来、5年連続で入選し、日本の芸能人で初めて、
同サロンの永久会員となられています。
八代さんは、現在も画家として活動されており、
ご自身の作品が展示されている「八雲ギャラリー」での絵画サークルでは、
八代さんご自身が指導にあたることもあるそうで、
八代さんは、今後の抱負について、
80歳を過ぎたら、私を歌手ではなくて、
画家として知っている人が多くなっているかもしれませんね。
そこで、突然のコンサート情報にみんなが驚くの。
「画家の八代亜紀って、もとは歌手だったらしいよ。
今度、コンサートを開くんだって」
そして、コンサート当日、ロビーには、
私の歌手時代を知らない若者があふれている・・・。
そんな未来を想像することもあるんですよ(笑)
と、語っておられました。
結婚は?子供は?
ところで、八代さんは、1994年、44歳で、
担当マネジャーだった5歳年下の増田登さんと結婚されているのですが、
八代さんは、30代の頃、人間関係や過密スケジュールなどのストレスから、
声が出なくなるなど、心身ともにボロボロになった時期があったそうで、
そんな八代さんをいつもそばで支えてくれていたのが、
担当マネージャーだった増田さんだったのでした。
ただ、当時は、あくまで、
ビジネスパートナーとしての間柄。
それが、やがて、お父さんに、
ああいう人がそばにいたら安心だよ
と、増田さんとの結婚を勧められるようになったそうで、
その後、お父さんが他界して、
大好きな人が遠くに行ってしまう寂しさを経験すると、
増田さんが夢の中に出てきて、
結婚するからさようなら
と、言われてしまったそうで、
どこかに行っちゃうと困る
と、焦った八代さんは、
(お嫁さんに)なってあげる、あげる
と、増田さんに迫ったのでした。
それに対し、当初、増田さんは、(マネージャーという立場から)
ダメダメ
と、1ヶ月も逃げ回っていたそうですが、
ついに、八代さんの粘り勝ち。結婚に至ったそうです♪
(お子さんはいらっしゃらないようです)
ちなみに、増田さんは、現在、
芸能事務所「ミリオングループ」の代表をされているのですが、
そのかたわら、陶芸家としても活動。
2005年からは、ミリオンアートギャラリーで、
陶芸の講師もされています。
さて、いかがでしたでしょうか?
八代さんと言えば、「演歌の女王」
と称されているように、演歌のイメージですが、
実は、幼い頃には、
お父さんがホームレスを家に住まわせていたこともあり、
八代さんもそのおじさんに毛布をかけてあげていたそうで、
そのルーツはジャズやブルース。
実際、現在でも、不定期に、
女子刑務所への慰問などを続けられています。
70歳間近の八代さんですが、これからも末永く、
その素晴らしい歌声を聴かせてほしいですね。
応援しています!!