1951年、18歳の時、映画「舞姫」で準主役で女優デビューし、以降、「東宝」「松竹」でスター女優として活躍すると、1962年、29歳の時には、吉田喜重監督作品「秋津温泉」で数多くの女優賞に輝いた、岡田茉莉子(おかだ まりこ)さん。
そんな岡田茉莉子さんは、プライベートでは、その吉田喜重さんと結婚しています。
今回は、岡田茉莉子さんの、夫・吉田喜重さんとの馴れ初め、結婚後の関係(夫婦仲)、子供についてご紹介します。
「【画像】岡田茉莉子の若い頃が美しい!デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」からの続き
岡田茉莉子は映画監督の吉田喜重と結婚
岡田茉莉子さんは、1964年、31歳の時、映画監督の吉田喜重さんと結婚したそうで、
旧西ドイツのバイエルン州で挙式し、約40日間にわたる新婚旅行では、ヨーロッパ各国を訪れたそうです。
結婚式での岡田茉莉子さんと吉田喜重さん。
岡田茉莉子の夫・吉田喜重との馴れ初めは?
岡田茉莉子さんは、吉田喜重さんを映画監督として”スカウト”したことがきっかけで知り合ったそうですが、実は、その2年前に、吉田喜重さんのシナリオを読み、その才能に衝撃を受けていたといいます。
岡田茉莉子さんは、18歳で映画デビューして以来、9年間で80本を超える映画に出演していたのですが、27歳の時、そんな岡田茉莉子さんのもとに、あるプロデューサーから、27歳の新人監督が書いた「ろくでなし」というシナリオが送られてきたそうです。
それは、岡田茉莉子さんがそれまで出演してきた映画とはまったく違っていたそうで、
岡田茉莉子さんは、
こんな脚本を書く人が出てきたんだ。すごい才能!
と思い、すごく新鮮に感じたそうです。
そして、出来上がった作品を観て、それまでの映画を覆す概念のものだと、さらに衝撃を受けたそうですが、これが、吉田喜重さんのデビュー作だったといいます。
(岡田茉莉子さんは、そのシナリオに魅せられて出演を快諾したそうですが、どうしてもスケジュールが合わず、最終的には出演することが叶わなかったそうです)
岡田茉莉子は「秋津温泉」の大ヒットで吉田喜重の才能を確信していた
その後、岡田茉莉子さんは、1962年、「松竹」から、デビュー100本記念作品として、自分の企画・プロデュースで主演する作品を作るよう勧められたそうで、
女優になって間もない頃に読み、いつか映画化したいと思っていた、藤原審爾さんの小説「秋津温泉」をその作品に決めたそうですが、
吉田喜重さんに映画監督を依頼したい旨、「松竹」に伝えると、
彼は原作ものはやらないから、断られますよ
と、言われたそうです。
それでも、岡田茉莉子さんは、人を介して吉田喜重さんに依頼したそうですが、やはり、断られてしまったそうです。
そこで、岡田茉莉子さんは、吉田喜重さんに直接会って説得したそうで、最初は断られたそうですが、粘りに粘り、原作通りでなくてもいいからと言うと、
吉田喜重さんは、
私たちの世代には、敗戦は避けて通れない出来事です。主人公である男女の青春に、それがどのような影を落としたのか。それを描きたい
と、条件を出したそうで、
吉田喜重さんと同い年(当時27歳)で、戦争を経験している岡田茉莉子さんは、その考えに異存はなく、快諾したのだそうです。
すると、吉田喜重さんを映画監督に起用した映画「秋津温泉」は大ヒットを記録し、岡田茉莉子さんも、この作品で、毎日映画コンクール女優主演賞など、さまざまな賞を受賞する快挙を遂げているのですが、岡田茉莉子さんは、「私の目に狂いはなかった」と、吉田喜重さんの才能を確信したのだそうです。
「秋津温泉」より。岡田茉莉子さんと長門裕之さん。
岡田茉莉子は女優引退を吉田喜重の言葉で翻意していた
ただ、岡田茉莉子さん自身はというと、実は、女優引退を考えており、受賞の祝賀パーティーで、引退を表明するつもりでいたそうで、
岡田茉莉子さんは、
女優人生で、この先、これ以上いいことはないだろう
(それまで自分には不向きだと思ってきた映画の世界で)精いっぱいがんばってきた。でも、もう自由になりたい
と、いうのが本音だったそうです。
そこで、岡田茉莉子さんが、控室でお母さんと吉田喜重さんに、引退を考えている旨、心の内を打ち明けると、
お母さんは、
あなたの好きにしたらいい
と、言ってくれたそうです。
一方、吉田喜重さんには、
あなたは青春をすべて映画に捧げてきました。辞めてしまってはもったいないとは思いませんか?
と、引き止められたそうで、
岡田茉莉子さんは、この言葉に、
そうだ、これまでの時間を否定してはいけない
という思いが湧き上がったそうで、引退を思いとどまったのだそうです。
岡田茉莉子は夫・吉田喜重と結婚後は公私ともに二人三脚で歩んでいた
その後、岡田茉莉子さんは、1964年、31歳の時、吉田喜重さんと結婚しているのですが、当時は、結婚すれば、女優は第一線で活躍できなくなくなる時代だったため、岡田茉莉子さんにもその覚悟はあったそうですが、
その時も、吉田喜重さんには、
女優を続けるべきだ
と、言われたそうで、女優を続けると、
結婚から2年後には、吉田喜重さんが「松竹」を退社し、2人で独立プロダクション「現代映画社」を設立したそうで、
岡田茉莉子さんは、吉田喜重監督と11本の映画を制作したのだそうです。
(内10本には岡田茉莉子さんが主演し、内1本は岡田茉莉子さんは女優としてではなくプロデューサーとして制作に加わったそうです)
ちなみに、映画の衰退とともに舞台やドラマの仕事も増えていったそうで、そのおかげで借金はせずに、2人のお金で映画を作ることができたそうです。
岡田茉莉子は結婚から50年を経過しても夫・吉田喜重をリスペクトしていた
そして、2015年には、「サンディエゴ・アジアン映画祭」で、吉田喜重さんの作品が2本上演されているのですが、
岡田茉莉子さんは、上映にあたり、
彼の映画の魅力については、私が説明するより、私が出演した映画を含めて吉田の全作品18本を見ていただきたいと思います。
それは深い奥行きがあって、簡単に私がお話しできるものではないからです。
と、コメントしており、
結婚から50年経過した中でも、ご主人の才能をリスペクトしていることが伺えます。
岡田茉莉子は夫・吉田喜重とはしばしば一緒にジムに行ったり海外旅行に行くなど夫婦仲は良好だった
また、岡田茉莉子さんは、プライベートでは、吉田喜重さんに、
女優は家事をしない方がいい
と、言われていたそうですが、
岡田茉莉子さんは、子供時代から家事をやっており、家事が嫌いではなく、”岡田茉莉子”の鎧を脱いで無心になれることや、気分転換にもなることから、吉田喜重さんがお風呂に入っている間にこっそり靴を磨いたりしていたといいます(笑)
また、2人共、体を動かすことが好きだったことから、一緒にジムに行き、エクササイズやエアロビクスをするほか、海外旅行にもよく行ったそうですが、
吉田喜重さんは、語学が堪能で博識だったため、海外では、通訳から、荷物持ち、ガイドまで、すべて引き受けてくれ、おまけに美容院の予約までしてくれたといいます。
岡田茉莉子の夫・吉田喜重は89歳で他界
しかし、夫の吉田喜重さんは、2022年12月、89歳のある朝、「気分が悪い」と言ったそうで、岡田茉莉子さんは、慌てて病院に連れて行ったそうですが、
そのまま意識がなくなり、まさに眠るように、静かに息を引き取ったそうで、
(吉田喜重さんは、亡くなる前日まで元気だったそうです)
岡田茉莉子さんは、吉田喜重さんが亡くなった後の生活について、2023年、雑誌のインタビューで、
(吉田喜重さんが)亡くなって1年半経ちますが、一人の生活にはまだ慣れません。地に足がついていないようで、どうやって歩いているんだろう、という感じです。
朝起きると彼の書斎の窓を開けて、生前と同じように「おはようございます」と挨拶。朝食のテーブルでは写真立ての前にコーヒーを置き、話しかけながら食べています。
一番寂しいのは夕食後です。いつも二人で並んでソファに座り、テレビを見ながらいろいろな話をしていましたから。彼はワインを飲み、私はアマレット。今も夕食後にアマレットをいただきますが、一人で飲むのは寂しいですよ。
まだ彼のそばにいたいので、納骨はこれからです。
などと、語っており、まだ、深い悲しみの中にいるようです。
岡田茉莉子の子供は?
ちなみに、岡田茉莉子さんと吉田喜重さんの間には子供はいません。
ただ、岡田茉莉子さんは、
夫が亡くなったあとも、東京のほか、アメリカ、韓国で、吉田喜重監督作品の追悼上映が行われるなど、作品は多くの方に観ていただけている。私たちに子どもはいませんが、作った映画はわが子みたいなものです。
と、語っており、
吉田喜重さんと2人で丹精を込めて作った作品は、ある意味、本当の子供以上に子供と言えるかもしれません。
1951年、映画「舞姫」で女優デビューすると、華やかな容姿と確かな演技力で瞬く間に頭角を現し、日本映画界の黄金時代を支えた、岡田茉莉子(おかだ まりこ)さん。 そんな岡田茉莉子さんは、二枚目俳優の岡田時彦さんと宝塚歌劇団 …