デビュー後いきなりブレイクされたかと思えば、その2年後の人気絶頂時には前川清さんと結婚し、その1年後には離婚された、藤圭子(ふじ けいこ)さんですが、その後、宇多田照實さんと出会い、あの宇多田ヒカルさんを出産されます。
「藤圭子の生い立ちは?若い頃の旦那は前川清?アルバムが大ヒット!」からの続き
宇多田照實と再婚し、宇多田ヒカルを出産
デビュー後、瞬く間に、大ヒット、結婚、離婚、を経験された藤さんですが、1974年には、「喉のポリープ」の手術を受けられると、自身の強みだった声の特徴が失われて悩むようになり、1979年には芸能界を引退し、渡米。
そして、1981年には帰国し、レコード会社を「RCAレコード」から「CBSソニー」に移籍されると、復帰第一弾となるシングル「螢火」を「藤圭似子」名義(1984年には再び「藤圭子」に戻されています)でリリースされたのですが、
「螢火」
翌年の1982年には、アメリカ滞在中に知り合われた、音楽コーディネーターの宇多田照實(うただ てるざね)さんと再婚。翌1983年には、女の子(宇多田ヒカルさん)を出産されます。
家族3人で世界を目指す
その後、藤さんは、ヒカルさんが7歳になると、ヒカルさんにR&Bのリズムを体に染み込ませると同時に、ネイティブな英語を身につけさせ、家族三人で世界を目指そうとニューヨークに移住。
生活は楽ではなく、資金が底をつくと日本に帰国し、家族3人で愛車の「ミニ」に乗って地方公演をするなど日本全国を巡業。資金が貯まると、またニューヨークに戻るといった生活だったそうですが、
トラブルになるようなお金はなく、周囲の目を気にすることもなかった当時は、純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられて、このうえなく幸せだったと、後に藤さんは語っておられます。
(当時、藤さんの人気は低迷していましたが、過去のヒット曲と抜群の知名度で、地方公演ではかなり稼ぐことができたそうで、照實さんがマネージャーを務め、二人三脚で夢を目指されていたそうです)
娘の宇多田ヒカルが大ブレイク
こうして、1993年、藤さんと照實さんは「U3ミュージック」を設立されると、ついに、1998年12月には、照實さんプロデュースでヒカルさんが、ファーストシングル「Automatic」でデビュー。
すると、弱冠15歳の少女にもかかわらず、圧倒的な歌唱力は世間を熱狂させ、瞬く間に200万枚を超える大ヒットを記録。ヒカルさんは一躍トップアーティストの仲間入りを果たされたのでした。
「Automatic」
そして、翌1999年には、ファーストアルバム「First Love」が、日本のみならず海外でもヒットを記録し、国内外合わせて、なんと1000万枚近くのセールスを記録したのでした。
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しかし、皮肉にも、この大ヒットで、藤さんと照實さんは、ヒカルさんのプロデュース方針の食い違いで激しい口論を繰り返すようになり、仲が良かった家族の生活は一変してしまったのでした。
離婚7回?理由は?
その後、藤さんは照實さんと離婚されているのですが、
照實さんによると、
ささいなことで口論になって、お互いが意地を張って、そのまま離婚しちゃって。あとで「寂しいなあ、何であんなことに なったんだろう」って。
あとで「あれっ」と2人とも思って、「別にこんなことで離婚する必要なんかなかったよな」って思った時に、また入籍してた。
と、その後、復縁。
ここまではよくある話なのですが・・・
実は、お二人、これを6回も繰り返されているというのです。(2007年には7回目の離婚)
ちなみに、成長したヒカルさんに、夫婦仲が冷え込んでいるのを察知され、
ママとお父さんって、離婚したほうがいいんじゃないの。2人は合わないんじゃないの。意見聞いてたら、両方の言うことが全然、かみ合ってないよ。
と言われて、離婚したこともあったとか。
5000万円を持ち歩いていた?
そんな中、2002年、ヒカルさんが紀里谷和明さんと結婚されると、藤さんは、家族との縁を断ち切るかのように、一人で世界放浪の旅を始めます。
そして、2006年3月には、約5000万円もの大金が入ったバッグを持っていたことから、ニューヨークの空港の所持品検査でひっかかってしまうのですが、
実は、藤さんは、人間不信から銀行さえも信用できず、普段からキティちゃんのバッグに札束をいくつもいれて持ち歩くようになっていたのでした。
「藤圭子の死因はマンションからの投身!遺書は?精神病み5億円浪費してた?」に続く
仲が良かった頃の家族3ショット。(左から)ヒカルさん、藤さん、照實さん。