「怪物くん」「忍者ハットリくん」「笑ゥせぇるすまん」「プロゴルファー猿」など、日本人なら誰でも知っている超人気漫画の作者、藤子不二雄Aこと、安孫子素雄(あびこ もとお)さん。今回はそんな安孫子さんの、生い立ち、相方の藤本弘(藤子・F・不二雄)さんとの出会い、漫画家を目指したきっかけについて、調べてみました。
年齢は?出身は?本名は?芸名の由来は?
安孫子さんは、1934年3月10日生まれ、
富山県氷見郡氷見町(現・氷見市)のご出身、
血液型はA型、
本名は、
安孫子素雄(あびこ もとお)、
学歴は、
高岡市立定塚国民学校(現・定塚小学校)
⇒富山県立高岡高等学校卒業
趣味は、ゴルフ、
座右の銘は、
「明日にのばせることを今日するな」、
ちなみに、芸名の由来は、相方・藤本弘さんの「藤」と、安孫子さんの「子」を取って「藤子」、下の名前は、藤本の「藤」と「安孫子素雄」の「雄」を取って「不二雄」としたそうですが、
もともとは、二人が尊敬する手塚治虫さんにあやかり「手塚不二雄」を名乗られていたそうで、あまりに露骨過ぎることから、手塚さんの足下におよびたいという意味を込めて、「足塚不二雄」に変更。
しかし、こちらも、しばらくしてから、苗字のほうは、どう考えても手塚さんのもじりみたいなので、変えようということになり、「藤子」に変えたのだそうです。
住職の息子
安孫子さんは、曹洞宗49代目住職の息子として、光禅寺というお寺で誕生すると、幼い頃は、映画に連れて行ってもらうなど、修行中の若い僧侶たちにかわいがられ、何不自由なく育ちます。(そのため、同年代の子どもたちとは話があまり合わなかったそうです)
赤ちゃんの頃の我孫子さん。
しかし、1944年、安孫子さんが小学校5年生の時、朝、元気に法要に出かけたお父さんが、読経を終えた後、鐘に頭を強打したことが原因で、突然、他界。
すると、(世襲制ではなかったため)本山から新しい住職が家族を連れてやってきたため、安孫子さん一家は、お寺を出ていかなくてはならなくなり、
高岡市に住む伯父さんを頼って転居し、高岡の小学校に編入されたのでした。
藤本弘(藤子・F・不二雄)との出会い
こうして、高岡の小学校の5年2組に転校された安孫子さんは、休み時間になると、一人で絵を描いていたのですが、そこに、細い少年(藤本弘さん)がやってきて、
お前絵うまいのぉ
と、話しかけられたので、その後、藤本さんの絵を見せてもらったところ、
藤本さんの絵は、安孫子さんが足元にも及ばないほどすごく上手だったそうで、このことがきっかけとなり、二人は仲良くなります。
その後、二人は、中学校は別々になってしまうのですが、隣同士の学校だったため、待ち合わせをして一緒に帰るなど、二人の友情は変わらなかったのでした。
ちなみに、安孫子さんは、お寺生まれながらお化けが怖くて嫌いだったのですが、その一方で、藤本さんはというと、お化けが好きだったそうで、我孫子さんは、そんな藤本さんに付き合って、小学校の頃はよく、映画「四谷怪談」などを一緒に観に行っていたそうです。
それでも、我孫子さんはやっぱりお化けが怖くて、お化けが出てくるシーンでは思わず目をつぶってしまっていると、藤本さんに脇腹をつつかれ、
なんで見ないんだ
と、言われたそうで、
藤本さんは、この頃すでに、未知なるもの、不思議なもの、四次元の世界に興味を持っていた夢見る少年だったようです。
手塚治虫の「新宝島」に衝撃を受け、漫画家を目指す
そんな、タイプの違う二人でしたが、1947年、中学1年生の時には、手塚治虫さんの「新宝島」という単行本が発売され、本屋に1冊だけ置いてあった漫画本を買って、2人で公園で読み、
(富山県は、当時、教育の観点から、本屋に漫画本が1冊も置いていなかったのですが、「新宝島」だけ、1冊あったそうです)
へぇーこんな漫画があるんだ!
と、2人して衝撃を受けられます。
1947年に定価23円で大阪市東区十二軒町七の育英出版社から発行された「新宝島」
というのも、その漫画は、最初に、ピート探偵という少年探偵がオープンカーに乗って登場するのですが、以降2ページに渡り、セリフも何もないまま車が走っていく様子だけが描かれていたそうで、
後に、安孫子さんは、
それはもう、紙に描かれた映画でした
と、語っておられるのですが、映画的手法を取り入れた革新的な漫画に二人は感動し、漫画家を目指そうと思われたのでした。
(ちなみに、この頃、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さんらも、田舎で「新宝島」を読んで、漫画家を目指そうと思われたのだそうです。)
「藤子不二雄のデビュー作は?手塚治虫との出会いはファンレターから!」に続く
藤本弘さん(左)と我孫子さん(右)。