高校卒業直前に手塚治虫さんの自宅を訪問し、手塚さんのオーラに圧倒された、藤子不二雄Aこと安孫子素雄(あびこ もとお)さんと、藤子・F・不二雄こと藤本弘(ふじもと ひろし)さん。その後、お二人が、どのようにして漫画家を目指したのか、そして、上京後、どのような生活や活動をされたのかについて調べてみました。
前列右端が藤本弘さん。中列右から2人目が安孫子素雄さん。
「藤子不二雄のデビュー作は?手塚治虫との出会いはファンレターから!」からの続き
安孫子素雄は新聞社、藤本弘は製菓会社に就職
ついに、憧れの手塚治虫さんとの対面を果たし、自分たちの作品も見てもらったお二人でしたが、
安孫子(藤子不二雄a)さんは、漫画を描き続けながらも、伯父さんが重役だった「富山新聞社」にコネで入社すると、学芸部でインタビュー記事を担当するほか、社会部や政治部で似顔絵を描かれ、
こんなに仕事が面白いのか
と、思うほど楽しく、そのうえ、給料もよかったことから、満足した生活を送られていたのですが、
富山新聞社
藤本(藤子・F・不二雄)さんはというと、工芸高校卒業後、なぜかお菓子会社に就職され、
そのうえ、作業中の不意の事故で手にケガをして漫画が描けなくなることを恐れたほか、仕事が合わなかったことから、(就職が一生ものだった時代に)入社してたったの半日(3日という説もあり)で会社を退職すると、
(在職中にした仕事といえば、電球をひとつ取り替えたことだけだったそうです。)
我孫子さんに、
俺は家で漫画を描き続けるけど、おまえは新聞社へ勤めていろ
と、言われたそうで、
以来、藤本さんは、漫画を描いては雑誌社へ送り続けることに専念し、我孫子さんは、週末だけその手伝いをするという状態が続いたのでした。
(1953年には、「足塚不二雄」名義で、お二人の初めての連載作品「四万年漂流」を連載し始めるのですが、数回で打ち切りになったそうです)
「四万年漂流」
藤本に誘われ、我孫子も退職して上京
すると、安孫子さんによると、安孫子さんが新聞社に勤めて2年目のある夜、突然、藤本さんがやって来て、
新聞社をやめて一緒に東京へ出ようよ
と、半ば命令口調で誘われたそうです。
ただ、安孫子さんはというと、サラリーマン生活が安定していたことや、好意を抱いていた後輩社員が会社にいたことから、新聞社に未練があったそうで、
(半ば反対されることを期待して)母親の言うとおりにしようと、母親に相談すると、
意外なことに、
あんたの好きにしなさい
と言われたそうで、
安孫子さんは、悩んだ末、
夢に懸けよう
と思い、上京を決意されたのでした。
(ただ、伯父さんには激怒されたそうです)
「トキワ荘」(元・手塚治虫の部屋)に入居
こうしてお二人は、1954年の6月に上京されると、東京都江東区森下にある、安孫子さんの親戚の家の2畳の和室を間借りされるのですが、
当時の我孫子さん(左)と藤本さん(右)。
同年10月頃には、「トキワ荘」に住んでいた手塚治虫さんが他に移ることになり、
入るか?
と言われて、「トキワ荘」の14号室に、手塚さんの後釜として入ることになったのでした。
ちなみに、お金がなかった二人のために、手塚さんが敷金3万円を肩代わりしてくれたそうで、お二人はその後、6年かけて手塚さんに返済したそうです。
また、机も、手塚さんが残してくれたものをそのまま使われたそうですが、その前に座ると、手塚さんのオーラが乗り移るような気がしたそうで、安孫子さんは、いまだにこのテーブルを保管されているのだそうです。
赤塚不二夫や石ノ森章太郎と貧しくも楽しい「トキワ荘」生活
ところで、この「トキワ荘」にお二人が入居された時、すでに、寺田ヒロオさんが住んでおり、後に、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎(当時・石森章太郎)さん、鈴木伸一さん、森安なおやさんが入居されるのですが、
当初は、全員仕事がなく、ラーメンが一杯30円だった時代に、そのお金さえもあるかないかという情けない生活だったそうです。
ただ、みんな同じだったため、昼間からみんなで酒盛りをやったりして、毎日が楽しくてたまらなかったそうで、
安孫子さんは、当時を振り返り、
地方から優秀な人が集まって。普通は嫉妬するもんだけど、誰かが売れると嬉しいというか、兄弟みたいな感覚で、嫉妬心とか一切なくて、50歳、60歳になろうがその関係が続いたのが嬉しかったですね。
と、その後も、「トキワ荘」のメンバーとは、ずっと変わらない友情が続いたことを明かされています。
「藤子不二雄は昔は干されてた?オバケのQ太郎も9回で打ち切り?」に続く
(左から)安孫子素雄さん、赤塚不二夫さん。鈴木伸一さん、藤本弘さん。