「想い出にかわるまで」「クリスマス・イヴ」「あしたがあるから」など、数々のヒットドラマの脚本を手がけられた、脚本家の内館牧子(うちだて まきこ)さんですが、実は、幼稚園ではいじめられていたうえ、強制退園までさせられていたそうです。そんな内館さんの、幼少期から少女時代について調べてみました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
内館さんは、1948年9月10日生まれ、
秋田県秋田市のご出身(4歳から新潟県、小学校3年生からは東京育ち)、
生後数ヶ月の内館さん。
身長168センチ、
学歴は、
⇒東京都立田園調布高等学校
⇒武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科卒業
趣味は、相撲観戦、
ちなみに、「内館牧子」は本名で、旧ペンネームは「岸牧子」です。
幼少期は病的に内気だった
内館さんは、「種蒔く人」などプロレタリア文学発祥の地の秋田県秋田市で誕生すると、大家族の中でとてもかわいがられて育てられたそうです。
(おじいさんもプロレタリア文学の同人だったそうです)
ただ、4歳の時、日本冷蔵(ニチレイ)に勤めていたお父さんの転勤で新潟県に移り住むと、甘やかされて育ったせいか、幼稚園では周囲からは浮き、いじめられたうえ、
社会性がなく、病的なほど内気で、お手洗いにもいけない子どもだったため、手がかかりすぎるからという理由で、入って半年で幼稚園を辞めさせられてしまったのでした。
幼稚園から相撲に夢中に
そんな中でも、実は、幼稚園では、いじめられていた内館さんを、いつも助けてくれた男の子がいたそうで、
その男の子はすごく身体が大きかったため、いつしか、内館さんの中で、「身体の大きい男は優しい」という刷り込みができてしまい、4歳の時から、「優しい身体の大きい男たち」がいる、大相撲にのめり込んでいきます。
そして、幼稚園を辞めた後は、お父さんの大きな机の下に入り込んでは、誰とも顔を合わさずに一人遊びをする毎日で、広告紙の裏に力士の物語を創作したり、相撲かるたを作ってみたり、紙相撲を作って戦わせ、自分で星取り表を作ったりしたのでした。
小学生時代は「神童」と呼ばれる
その後、小学校に入学した内館さんは、相撲遊びの中で、力士の四股名もすべて漢字で覚えていたことから、「吉葉山」や「鏡里」といった難しい漢字が書けたほか、10勝5敗など、星勘定で鍛えたせいか、15までは暗算ができたことからそうで、「内館さんはすごい!」と先生にびっくりされ、
クラスメイトたちからは、内館さんの机を囲んで、「キレイ!」「すごーい!」と、内館さんのノートを見て大騒ぎされたそうで、
このような経験から、内館さんは、すっかり自信がつき、それ以来、性格が明るくなり、言いたい放題の子どもになってしまったのだそうです(笑)
(内館さんは、新潟時代、「神童」と呼ばれていたそうです)
東京の小学校ではカルチャーショック
ただ、そんな内館さんも、8歳(小学校3年生)の時、東京の小学校に転校すると、すごいカルチャーショックを受けたそうです。
というのも、内館さんは、新潟では下駄で登校していたのですが、東京に来て、初登校日の前に、お母さんが新しく下駄を買ってくれたので、うれしくてその下駄を履いていくと、みんな、運動靴や靴下を履いていることにびっくり。
内館さんは、この時、初めて上履きというものを見たそうで、それを知ったお母さんは、慌てて、靴と靴下を買いに行ってくれたのだそうです。
中学・高校では水泳部に入部
そして、成長した内館さんは、中学・高校生の時には水泳部に入部。
実は、内館さんのお父さんは、早稲田大学の水泳部員で、オリンピック候補と言われるほど活躍されたのですが、結局、オリンピックの夢は果たせず、その夢を、娘である内館さんに託されたのでした。
「内館牧子の学生時代は?三菱重工入社も相撲協会転職を熱望していた?」に続く
高校時代の内館さん。