1961年7月には、2度目のハンブルク公演を大成功で終え、リヴァプールに帰ってきた、「The Beatles」ですが、この中に、ベースのスチュアート・サトクリフさんの姿はありませんでした。
「ビートルズ(マッシュルーム)カットはプールで偶然に誕生?」からの続き
スチュアート・サトクリフ脱退
2度目のハンブルク公演(1961年4月1日から7月1日の92日連続)で大成功を収めた「The Beatles」ですが、この公演が終了する頃には、ベースのスチュアート・サトクリフさんの姿はありませんでした。
(スチュアートさんが「The Beatles」を脱退した正確な日付は分かっていませんが、1961年6月22日、歌手トニー・シェリダンさんと「マイ・ボニー」等をレコーディングする際には、既に姿がなく、ポール・マッカートニーさんがベースギターを担当していました。)
実は、スチュアートさんは、もともと画家志望で、「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」に通っていたのですが、そこで、ジョン・レノンさんと出会い、一緒に住むほどに親しくなると、
楽器が弾けないにもかかわらず、自身が描いた絵が高値で売れたことから、ジョンさんとポール・マッカートニーさんに(半ば強制的に)勧められてベースを買い、バンドに加入しているのですが、
次第に、ジョン・レノンさんと親友同士だったポールさんが、後から割って入ってきてジョンさんと仲良くなったスチュアートさんに嫉妬するようになると、
(スチュアートさんは、ジョンさんからは、「座っているだけでいいから」と言われていたとも)
他のメンバーに比べ、演奏能力が拙かったスチュアートさんのプラグを演奏中に抜くなど、あさらさまに嫌がらせをするようになり、
(「The Beatles」のメンバーと親しい人達の話によると、あまりのひどい仕打ちに、スチュアートさんがステージ上で癇癪(かんしゃく)を起こす姿が何度も目撃されており、スチュアートさんがいじめられているように見えたと証言しています。)
ジョンさんに憧れて、「The Beatles」のメンバーに加わったスチュアートさんも、自分はジョンさんのようにはなれないと悟って、本格的に画家の道を進むことを決意。「The Beatles」を離れたのでした。
スチュアート・サトクリフが死去
実際、スチュアートさんは、すでに、1961年2月には、美術教員の資格を取ろうと、母校「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」の美術教員免許コースに出願し、面接を受けています。
ただ、結果は不合格で、その後、6月には、婚約者のアストリッド・キルヒャーさんと同棲するため、奨学金を得て、西ドイツのハンブルグ美術大学に編入されると、画家としての創作活動に専念。
しかし、夏頃から、頭痛などの体調不良を訴えるようになると、翌1962年4月10日には容態が急変し、救急車で病院へ搬送されるも、その途中で「脳出血」により、21歳という若さで他界されたのでした。
「ビートルズ」時代のスチュアート・サトクリフさん
(後に、スチュアートさんは、「5人目のビートルズ」と称されるようになっています)
「The Beatles」のレコードデビューが決定
スチュアートさん脱退後、4人組となった「The Beatles」は、ポールさんが代わりにベースを担当するようになるのですが、
その後、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインさんが、マネージャーになることが決定。
このブライアンさんの売り込みにより、「The Beatles」は、1962年1月1日、「デッカ・レコード」のオーディションを受けるのですが、あえなく不合格となってしまいます。
それでも、「The Beatles」は、引き続き、ライブ活動を続け、4月11日には、3度目のハンブルク公演に向け出発し、4月13日から「スター・クラブ」で公演を開始(5月31日までの48夜出演)していたのですが、
エプスタインさんは、その間も、各レコード会社に売り込みを続けていたそうで、その努力が実ってか、6月、「パーロフォン・レーベル」(EMIの傘下)からオーディションのオファーが舞い込みます。
そして、6月6日、「The Beatles」はオーディションを受けると、見事合格。ついに、レコードデビューが決定したのでした。
「ピートベストがビートルズから追放!ジョージが先導しジョンとポールも賛同?」に続く
スチュアートさん(左)とポールさん(右)